気付けば僕の哲学記事は4つ目。哲学ブログはなんぼあっても面白いですからね。時間と技術の無駄遣いを生業とするコメントアート界隈において、哲学という名の駄文とっても役立つノウハウ記事は相性がいいんですよ。今回もたっぷり時間を費やして長文を書いていきますよ。
僕も意気揚々と書き始めたのですが、気付けば数ヶ月も経っていました。色々忙しくてね…。思えば最近、周りの人皆が忙しそうにしているではありませんか。XのTL更新速度も心做しか遅くなっている気がします。CAブログも先月はギリギリまで投稿されなかったようです。とりあえず4月は僕が押さえましたよ!
新学期、新社会人と慌ただしい今日この頃。僕だって忙しいんですよ!何せやりたい事が沢山あるんですもの。絵を描きたい、ボカロ曲を発掘したい、ゲームもしたい、公式アニメにコメントアート貼りたい、合作も進めたい、でもって学業が忙しい。そこに最近「ボカロ曲を作りたい」が加わったのです!
何故ボカロ曲を作るかって?そりゃ自作曲にコメントアートでMVを付ける為ですよ!アボガド6さんみたいにね!
早速DAW(作曲ソフト)を立ち上げてポチポチ音符を打っていく。作曲は実は4年前から初めていたので、難なくメロディーが出来ましたよ。そしてギター、ベース、ドラムを打ち込んでいく!完璧!!最後にミクさんに歌ってもらう!…と、歌詞を書かなければなりませんね。
僕は作曲はできるけど、作詞が出来ない!文章を書く能力に長けてないからである。能力不足の理由は単純で、文章を書く経験が少ないからです。6年間X(Twitter)やってて総ポスト数170くらいですからね!(同期に1万超えてる人いてびっくり)
僕がこうしてブログを書いてるのも、物書きとしての訓練の一環です。で、文才を鍛えるためには、まずブログの書き方をマスターする必要があります。ならそこらの「ブログの書き方」なる本でも読めばいいんじゃないか?
しかしここはCAブログ。ざっくばらんにコメントの話をするのが目的なので、ブログの書き方をバカ真面目に学ぶ必要はない。大事なのは、コメントアート界隈の皆に役立つ記事を書くこと(勿論役立たなくてもいい)。とりあえず面白ければヨシ!と僕は勝手に思ってます。
じゃあ面白いCAブログを書けるようになるにはどうすればいいの?…答えはこのサイトにありますよ。メモ帳さん達のブログを読めばいいのです。先人の知恵や工夫を借りて、自身のブログに生かすのです。「過去から学ぶ」です。
その為に過去の記事が今尚残っているのです。今までに書かれたものは言わば「歴史」です。という訳で今回のブログのテーマは「歴史」です。駄文とっても役立つ哲学記事となりましたので、是非ご覧下さい!
シンボル形式の哲学
メモ帳さんが歴史カテゴリーを追加してくれた貢献により、CAブログでコメントの古今東西を語り、学ぶ事が可能になりました。
人類にとって歴史は重要な要素です。その重要性はメモ帳さん自身が解説されております。
さて、コメントの歴史カテゴリができたはいいものの、何を書けばいいか、どう書けば役に立つか迷っている方もおられるでしょう。そんな時はメモ帳さんに相談しに行けば解決しますよ!とはいえ折角なので僕も歴史の紡ぎ方について書いてみます。
また歴史は書き記すだけでなく、読む人がいて初めて成り立ちます。つまり歴史を読み解くのも重要なのです。今回は歴史の学び方についても考察していこうと思います。
今回紹介するのは、ドイツの哲学者・思想史家であるエルンスト・カッシーラーが提唱した、「シンボル(象徴)」という概念です。歴史を理解する上で、このシンボルの考え方が大いに役立ちます。という訳でシンボルについて分かり易く解説していきたいと思います。
手っ取り早く結論だけ知りたい、という方は3章か4章まで飛ばして頂けると幸いです。今回も長文記事ですからね!
(お断り:私は哲学の専門家ではありません。あくまでも私の解説はCAブログのコラム的なものです。私の理解が不十分な点があるかもしれませんが、ご了承ください。より詳しくシンボルについて知りたい方は、実際の論文やその邦語訳を読んでみよう!)
パースの記号論
シンボルの解説に移る前に、チャールズ・サンダース・パースによる「記号論」について説明します。というのも、カッシーラーの論文「シンボル形式の哲学」はなかなか難解であり(そもそも哲学の論文全てが僕にとって難解なのだが)、記号についてを先に理解して頂いた方がとっつきやすい為です。記号とシンボルは似たような物ですからね。
記号には、表したい「対象」と、それによって人々がイメージする「解釈項」を含有します。
…という説明では何が何のこっちゃなので、分かり易い例を示します。皆さんが記号と言われて思い浮かべる物といえば、○☆+◢$などの「記号文字」ではないでしょうか。記号文字の何が便利かというと、マルや星、加算などの「物体や原理」を人々に伝えられる事です。ドワンゴの栗田穣崇氏も絵文字を作り、物事や表情などを伝える「記号」を生み出したのです。
この考え方で言えば、文字も「記号」と見做すことができそうです。ひらがなカタカナ漢字、アルファベットも、いくつか並べれば物を表す事ができます。例えば僕が「ブルーアーカイブ」と書けば人々は例のゲームを思い浮かべますし、僕が「栗田さんが○○○○にハッカ油を塗った」と書けば、悶え苦しむ栗田さんの光景を想像するのです。「ブルーアーカイブ」という文字列自体はゲームではありませんが、人々は「ゲームを表している」と解釈するのです。
さらにぶっ飛んだ事を言うと、文字以外の世の中のあらゆる物が「記号」になりそうです。赤いリンゴを見れば人々は「例のフルーツだ」と思いますし、配生を見れば人々は「コメントが好きなおじさんの生放送」と解釈します。
これを踏まえて「記号」、「対象」、「解釈項」について確認していきましょう。☆の例で言えば、「☆」という文字が「記号」、宇宙空間で光ってるデカいアレが「対象」、人々が想像するキラキラした物が「解釈項」です。
ブルアカの例で言えば、「ブルーアーカイブ」という文字列が「記号」、NEXON Games がリリースしたアレが「対象」、人々が想像する例のゲームが「解釈項」です。
リンゴの例で言えば、リンゴという視覚的な物体が「記号」、果肉が詰まったやつそのもの(視覚を含む五感、想像などを抜きにしても存在するもの)が「対象」、人々が想像する「例のフルーツ」が「解釈項」です。…これが僕なりの精一杯分かり易くした説明です。
記号は、対象と解釈項を媒介する役割を持ちます。何かを表したい、人々に伝えたい時は、記号を通じて、「解釈項」となり表されたり伝えられたりします。もう一つ例として、食堂でラーメンを注文する状況を想像してください。自分がラーメンを食べたいという意思が「対象」となります。店員への「ラーメン一つ」という注文、つまり「記号」を通じて、店員はラーメンを提供するという「解釈項」が生まれるのです。
記号とは目に見える物に限ったものではなく、音声による情報や、概念として表されるものにも適用されます。
カッシーラーのシンボル
記号について理解した所で、カッシーラーの「シンボル」について見てみましょう。再度書きますが、シンボルは記号と似たようなものです。表したい「対象」に対して、人々に「解釈項」を与えるものです。
シンボルが記号と異なる点の一つは、媒介させた意味から間接的に他の意味を連想させるものである事です。記号の持つ解釈項だけでなく、その解釈項から別の事項も類推されるのです。その類推されるプロセスは、人間文化や各個人の価値観に依存するのです。
…とやはり説明が難しくなってしまいましたので、シンボルについてイメージしやすい動画を貼ります。バカリズム単独ライブ「image」の中での説明です。
「ペットを飼っています」「名前はシロです」この文字列を聞いただけで、シロを飼っているという情報だけでなく、飼っている動物はイヌだとイメージできます。何故なら、日本でイヌによく付けられる名前はシロであるというシンボルがあるからです。
「先週の水曜ぞんぞりもすを見ましたよ」と聞けば、聞き手の知識や文化、価値観を元にして、各々が独自のぞんぞりもすを理解します。それは食べ物だったり、生き物、行為の可能性もあります。
このように、文字通りの意味だけでなく、そこから発想を飛ばす事ができる。これがシンボルです。人間はシンボルの中に生きています。今までの文化の蓄積、今現在の人間文化の流動に左右され、シンボルが形成されます。そのシンボルの下で、与えられた解釈項に対して新たな事項を連想させ、我々人間が成り立っているのです。
という事は、同じ記号を与えられても、受け取る人によって別の解釈をされるのです。例えば色んな国の人が月の模様を見たとします。日本人はそれを「ウサギ」と解釈し、ヨーロッパの人は「蟹」と解釈します。皆同じ「月の模様」を解釈項として認識しているのに、各々で文化が違う為に連想される物(動物)が違うのです。この「文化などに依存した解釈」がシンボルの特徴の一つです。
そもそも「自己」とは何か?
つまりは個人個人で物の考え方が変わる、という事ですね。となれば、個人個人の内の一人である「自分自身」の立ち位置も重要になるのではないでしょうか。
哲学とは人間や世界の原理を研究・考察する学問です。その中で特に重要な分野は「自分自身について」です。何故なら、哲学を行っているのは自分自身に他ならない為です。自分自身とは何かを究明するのが、人間学の一環です。
人間学の歴史は紀元前に遡ります。デルフォイのアポロン神殿には「汝自身を知れ」という古代ギリシアの格言が書かれています。この言葉の意味や起源は諸説あるのですが、人間の自分自身を知る出発点であると考えられています。ソクラテスもこの言葉を原点として、人間の真理を追求しました。それ以降、様々な哲学者達が自分自身の本質を模索するようになりました。
カッシーラーのシンボルの考え方は、従来の人間学や哲学への対抗として生まれたと考えられています。従来の自己観察法に基づく人間研究のみでは、人間社会における人間の役割を見出すのに不十分なのです。人間文化を理解するには、シンボルによる客観的な視点を持つことが重要であると、カッシーラーは主張しています。
自分自身を理解する為にカッシーラーが用いたのがシンボルの考え方です。人間文化の中で、自分はどんな立ち位置なのか、そもそも人間はどんな立ち位置なのかを理解するのです。前回のメモ帳さんの記事も、自分は何者なのかを考察する内容でしたね。自己とは「可能性と必然性の綜合の結果」であるのですが、この「結果」とはシンボルの下で生まれた物ではないかと私は考えました。
例えば貴方がコメントアート製作者になった理由について考えてみましょう。恐らく「たまたま見かけたコメント職人に感動したから」というのが多くの理由でしょう。ではここで一つ質問。
何故コメント職人に感動したのですか?
人間以外の動物が職人コメを見た所で、何の感情も湧きません。ただの記号の羅列ですから。人間がコメント職人に感動するのは、コメント周りに関する人間の文化、つまりシンボルが関わっているのです。
まずニコ動に流れるコメントは文字である、というシンボルが既にあります。これはニコ動の文化ですね。このシンボルがあってこそ、職人コメントは「技術が込んでいて素晴らしい」と思えるのです。文字を綺麗に組み合わせるのは技術が必要ですからね。
また、人は絵を見ると(作品によりますが)感動する、というシンボルもあります。このシンボルのおかげで、コメントアートを見ると、絵を見た時と同じく感動できるのです。
貴方個人が「コメント職人に感動した」というのは、様々なシンボルが組み合わさり、そのシンボルに支配された結果なのです。
人間を理解するには、シンボルの考え方が重要なのです。人間の行動や思想などを捉える事で、人間文化における自分の役割が浮かび上がるのです。そして自己認識へと踏み出すのです。
自分がどんな存在なのか。今まで知り得なかった事を知るのが人間学の第一歩です。
シンボルの考え方は、世界中のあらゆる物事に当てはめられます。人間の表現や活動全てをシンボルとして見れば、色んな物の見方が変わってきますよ。カッシーラーのシンボル形式の哲学は、芸術、言語、宗教、科学、そして「歴史」へと応用されていくのです。
歴史を俯瞰する事は可能か
歴史とシンボル
客観視の重要性を訴えたカッシーラーですが、恐らく歴史の理解においても客観的に見る事が大切なのではないでしょうか。しかしそう上手くはいかないのです。
シンボルの考え方では、人間の解釈は文化に左右されます。という事は、時代にも左右されるのです。
例えばClariSの曲「コネクト」を聴いたとします。一昔前なら、「まどマギの曲」「神曲」などの感想を抱くでしょう。勿論今もそうなんですが…
今現在同じ曲を聴くと、ワッカさんのご満悦な顔が脳裏に過るのです。昔のような純粋な気持ちで聴けなくなってしまう事があるのです。不憫ですね。
何故このような事が起こってしまうのかというと、「おとわっか」という新たなシンボルが現在に適用されているからです。おとわっか以前でのコネクトは純粋な「神曲」ですが、おとわっかというシンボルの中で聴くと、コネクトは「神曲かつワッカさん」と解釈されてしまいます。
歴史を遡る際には、現在のシンボルの下で歴史が解釈されるのです。よって、当時のありのままの体験を追憶する事は出来ないのです。我々が今歴史と呼んでいる物はあくまで現在の視点で語られたものであり、過去の空気感や価値観そのものではないのです。
我々が現代を生きている以上歴史を客観的に見る、つまり俯瞰する事は不可能なのです。
過去を振り返るのに必要なもの
歴史のありのままに理解するには、まずその時代でのシンボルそのものを理解する必要があります。当時の空気感や価値観をそのまま証言できる人が必要です。
例えば昔のCA動画を紹介する時。その動画の凄さをどう伝えれば良いのでしょうか。
ただ動画をポンと貼るだけではウケはあまり良くないのです。昔のニコ動の雰囲気を知らない人が昔の動画を見たところで、それが当時どんな反響を呼んだか、当時の視点でどう凄かったのかは分かりません。
そこで、当時の状況を少し解説した上で、当時の「シンボル」に当てはめて紹介してみましょう。これを上手く成し遂げたのがメモ帳さんのブログ記事です。
職人クエスト。我々から見るとただ投稿者コメントを使っただけの動画。それをメモ帳さんは、当時これが何故凄かったのか、当時のランキング事情も織り交ぜて解説しているのです。
この記事を読めば、17年前にタイムワープした気分になり、この動画の凄さが身をもって体験できるのです。つまり、昔のシンボルの下で昔を感じる事ができるのです。
…と躍起になって書いたのですが、残念ながらありのままの歴史とはならないのです。何故なら、この記事を読んでいるのが現在である以上、当時の空気感や価値観も現在の視点から解釈された物になってしまうからです。今メモ帳さんや僕が言っている「17年前の状況」というのは、現在の価値観から対照的に見た昔、つまりは幻に過ぎないのです。
関係性を見出す
カッシーラーの考え方の元では、過去をありのままに味わうのは不可能なのです。どうやっても無理な物は仕方ないのです。
ではどうすれば歴史を上手く学び取り、生かす事が出来るのでしょうか。そこで代わりに、ありのままの歴史が追体験できない前提で、歴史を効果的に味わう方法を模索するのは如何でしょうか。
先程、歴史を客観視できない、つまり俯瞰できないと書きました。しかし、俯瞰の意味を取り替えれば、別の意味で歴史を見る事ができるかもしれません。
俯瞰という言葉を、「物語として見る」という意味に置き換えます。つまりある瞬間のみの歴史に拘るのではなく、歴史の一連の流れを時代を超えて読み解くのです。歴史を完全に客観視できなくても、少しでも客観的に見ようとするのです。
物語には時系列に前後関係がありますよね。炭治郎が復讐を誓う、鬼殺隊に入る、柱と出会う、鬼を倒していく、…というように。物語のある時点での出来事は過去の出来事に関係しているのです。
また同じ時間の物同士も、お互いに作用し合っているのです。炭治郎が鬼と戦っているのも、妹を守る為、復讐を果たす為、より強くなる為、など様々な要因が関与しているのです。
カッシーラーもシンボルにおいて、表出は連関がキモだと述べています。表出やら連関やら難しい言葉はさておき。歴史は時間や空間を横断しながら紡がれているのです。その関係性を重視しながら歴史を読み解く事が大切なのです。
歴史は物語である
歴史の新たな学び方
歴史を物語として見る重要性は、現在において議論の的となっています。というのも教育界において、歴史の物語性のメリットが指摘され始めているのです。
従来の暗記一辺倒な教育法から、思考力を重視したものにシフトしつつあります。これを踏まえ、新学習指導要領では歴史は「歴史総合、日本史探究」という名前に変わりました(世界史探究もあります)。歴史総合では近代の国内外の歴史を学びます。日本史探究では、歴史総合で身につけた知識を総合的に捉え、現代日本の諸問題を多角的な視点で考察します。その一環として、歴史を物語として捉える能力を培うのです。
2025年から共通テストも新課程に対応されます。ここで、「歴史総合、日本史探究」の試作問題を見てみましょう。皆さんも解いてみてください。
文章量が多いですね…。といっても、設問は簡単なのでご安心ください。歴史選択でない僕でもすぐにわかります。
1850年代に日米で結ばれた条約と言えば、「日米和親条約」ですね。また当時の船の燃料は石炭です。よって解答は⑥です。
これが従来の学校の出題だと、「1854年、ペリーにより日米間で結ばれた条約は?」という聞き方になるかと思います。”1854年、日米和親条約!”て感じで年号と出来事を一問一答で暗記すれば、高得点が取れたのです。何故、新共通テストではこのような回りくどい聞き方をするのでしょうか?それは、歴史の物語性を見てほしいからです。
何もペリーは日本観光に来た訳ではありません。18世紀のイギリスで始まった第一次産業革命により、効率的な鉄道や蒸気船が開発されました。これに伴い交通革命が起きます。その後、アメリカやヨーロッパ諸国にも伝わります。蒸気船は世界中の海上貿易を推進したのです(他にも様々な要因がありますが割愛)。ここでアメリカがアジアに進出するために、中継地となる日本と条約を結ぶ必要があったのです。これが日米和親条約です。
当時の船の燃料が石油か石炭か、これも歴史の物語性を見ればわかります。第一次産業革命の要素の一つとして、イギリスの技術者ワットが開発した「蒸気機関」が挙げられます。これは、炭鉱にて効率の良い動力として使われました。後に工場や移動手段にも用いられます。この蒸気機関のエネルギー源は石炭です。蒸気機関車にも石炭車がありますよね。産業革命以降は石炭がエネルギー源として重宝されたのです。石油の採掘が始まるのは、日米和親条約から数年後のお話。
以上、新しい教育課程の歴史の攻略法は、「歴史を物語として見る」です。歴史上の様々な出来事を物語として見る事で、個々の出来事に意味を見出せるのです。
それだけでなく、勉強の効率も上がります。今まで考査前日に徹夜で暗記してた歴史の勉強も、ちゃんと物語で見ればスラスラ頭に入ってくるでしょう?当時の情勢もわかりやすくなったでしょう?教育を進化させる意義は、学習したものを実生活などでより使いやすくする事が一つです。歴史で学んだ事が記憶に残りやすくなれば、それを活かすのも容易になります。
歴史の教科書に乗っている産業、政治、宗教などの成り行きを物語として統括して見るのです。それぞれが密接して歴史は成り上がっているのです。
因みに[イ]に入る都市は上海です。いくら物語性重視だからといっても、暗記も必要です。ご了承ください。
歴史の新たな紡ぎ方
皆さんが学生の頃、歴史を勉強する時に、用語を覚えるのに苦労したのではないでしょうか。武家諸法度だの墾田永年私財法だの、先人達はなんでこんな覚えにくい言葉を残したんだ!とキレかけた人もいるのではないでしょうか。
こんな事を繰り返さない為にも、私達が歴史を書き残す時には、もっと覚えやすく、理解しやすくする必要があります。つまり、歴史を物語として紡ぐのです。その為には、主人公を設定する必要があります、物語には主人公の存在が不可欠です。主人公のいないアニメや漫画なんてこの世にありません。
メモ帳さんの記事では、実存的に生きることで物語を生み主人公になれる、と書かれています。実存的に生きるとは、自らが大切にしている価値観・理念・行動基準に従って生きる事です。この時「Why」を語ることで、より主人公としての実存性が深まります。
折角なので「Why」を語る一例を示す為にも、合作の話でもしましょう。ここで紹介するのは、ニコニコ動画17周年企画で行われた「邪神ちゃん合作」です。
何故この合作に参加したかというと、コメントアートが始めてニコ動公式やアニメ公式に公認されるという名誉ある活動に、自分も加わりたかったからです。コメントアートの歴史を担う一員になれるとは夢にも思いませんでしたから。
こちらの記事にて、合作で作ったCAの解説を書いています。ここから抜粋して、こちらのCAが作られた理由を説明します。歴史の主人公になる為には、理由を述べていかないとですからね!
「超おどるメイドインワリオ」というゲームにおいて、ビリヤードのプチゲームがありました。その時の体勢が、邪神ちゃんのポーズと似ていたのです。という訳でキューを持たせてみました。
で、そもそも何故邪神ちゃんにビリヤードをやらせたかというと、邪神ちゃん合作の制約が響いていたからです。今合作はニコニコ公式企画の為、アニメ邪神ちゃん以外の版権キャラはNGでした。今までの中曽根OFFなどの合作は、各々の好きなキャラを流していくものだったので、この制約はかなり痛かったです。つまりは自分で一からオリジナルのネタを考えなければならなかったのです。
そこで僕が考案したのが、「日常的なポーズや動作を邪神ちゃん達にあてがう」という物でした。公式アニメはキャラが様々な動きをするので、このような動作ネタは相性がいいのです。
さらに、他の版権キャラを使わずとも特徴的なネタになるのもメリットです。CAでウケを狙うには、特徴的な作品を作らなければなりません。ただ記号文字を並べるだけでなく、視聴者が喜びそうなものを作る必要があります。版権キャラを使えるなら、とりあえず流行りのアニメキャラを出せばウケるでしょう。版権キャラが使えないのであれば、日常的な面白いネタが必要です。ビリヤードや綿菓子機のジェスチャーは、誰もが知っている分かりやすいネタなのでウケがいいのです。
僕のCAとこの解説で、「アニメ本編への装飾CA」という新たな歴史を作れたのではないでしょうか。何故、どのような経緯でこのCAが生まれたか。それを事細かく書き綴れば1つの「物語」となります。そして書き綴った人が「主人公」となります。自らが主人公となり、「Why」を語っていく事で、新たな歴史が生まれるのです。
歴史を作るのは君自身だ!
物語を作り上げて主人公となった1人として、チビッパさんが挙げられます。チビッパさんと言えば、高精細な点字CAでしょう。何故チビッパさんは現在の点字を牽引する第一人者となったのでしょうか。
こちらのチビッパさんの記事を読めば一目瞭然です。只管に点字CAの作り方を研究するだけでなく。点字CAが今に至るまでの歴史を見事に語っているのです。ただ出来事を羅列するだけでなく、「Why」を事細かに語っているのです。先駆者達がどんな苦労をしてきたか、どんな打開策を考案したか、どんな進化を遂げてきたのか。
何も歴史とは自叙伝だけとは限りません。他の人がどんな事をやってきたのか、後追いでもいいので書き残す。風化させない為に。これも立派な「歴史」ですよ。そして書き手が主人公になります。
ただ他人の事を書くのって難しいんですよね…。例えば「あなたの好きな物を10個挙げなさい」と言われればすぐに出てくるでしょう。これが「あなたのフォロワーさん10人の好きな物を一つずつ挙げなさい」だと戸惑うのではないでしょうか。他人を理解するって大変なんですよ。その点でチビッパさんの記事を素晴らしいんです。
さらにチビッパさんの凄い所は、点字CAの作り方まで丁寧に書かれているんですよね…。
ここまで点字CAに心血を注いでいるのならば、歴史の創始者と言っても過言ではないでしょう。何故なら、「点字CAを広めたい」という強い信念を持ち、実存的に生きているからです。つまり、点字CAの歴史の主人公なのです。主人公がいてこそ、歴史は物語として受け継がれるのです。点字CAと言われればチビッパさんを思い浮かべるという、一種の「シンボル」を築き上げたのです。
点字という新たなジャンル。所謂ルールみたいな物ですね。CAに使える文字はごまんとありますが、点字に対象範囲を絞る(ルールを定める)事で、皆が点字CAに興味を持てるのです。
皆さんも物語の主人公になってみませんか?新たな歴史を作ってみませんか?
人類の新たな歴史を作らないか?
チビッパさんに倣い、君も!と言われても、やはりどうすれば主人公になれるか、そもそも何を書けばいいのか迷っている人もいるのではないでしょうか。心配ご無用!CAブログなんぞ、バカ真面目に書く必要はありません!どんな些細な事でも、少しでも書けば「歴史」になり、「物語」になり、書き手は「主人公」になれるのです。どんなに些細な事でも構いません!!
こないだ、コマンドの効率的な打ち方を思いついた。CAに特殊文字を使ってみた。昔あんなCAを見かけた。はい、ブログに書いてみる!!これで「歴史」が紡がれるんですよ!!!
コメントアート界隈は、時間と技術を無駄遣いするのが得意な人々の集まり。それはブログを読む時だって同じです。どんな駄文だって、しょうもない事だって、CA界隈の皆は読んでくれる。ちゃんと記事として残せば、未来のCA製作者が読んでくれるかもしれない。
こんな簡単な事で「歴史の担い手」なる功労者になれるチャンス、他に無いですよ!ちょっとブログを書くだけでドヤれるんですよ!
とにかく何でもいいから、書いてみましょう!!!!
歴史を学ぼう
「自分が歴史の担い手だなんて、そんな高尚な存在になれる訳がない…。」なんて消極的になるの、そういうのよくないと思います!
確かに自分達がやってる事が、将来役に立つなんて事はないかもしれない。でもね、出逢いのきっかけって意外と偶然だったりするんですよ。
未来の事は誰にも分かりません。またコメントアート界隈は狭い集まりなので、1人が起こした行動は間違いなく他の誰かに影響を及ぼします。つまり、あなたが歴史を残せば、ほぼ必ず誰かの役に立つのです。
「CAにこんな文字を使ってみた」とかでもいいんですよ。それを見た他の人が真似して、新たなCAが作られる。仮に真似する人がいなかったとしても、誰かの記憶の片隅にしまわれ、いつかの未来で引き出される。
あなたの行動が誰かの行動へと繋がる、その人の行動がまた別の誰かの行動を促す。これが連鎖して、最終的にはでっかいCAとかCA文化とかが形成される。これが「歴史」なのです。
そうそう、チビッパさんに端を発する点字CAですが、僕も作ってみました。
チビッパさんの点字CAの作り方をよくよく学び、自分も記事を残しました。これで新たな点字CAの歴史を僕が紡いだのです。もしチビッパさんが記事を書かなかったり、僕が制作方法を調べようとしなかったりすれば、点字CAが作れず、僕にとってチビッパさんは嫉妬の対象となってしまったかもしれません。
先の歴史では人間同士の紛争が後を絶ちませんでした。文化、宗教、価値観の違いにより、自分にとっての「敵」を生み出してしまったのです。
決して敵を見誤ってはいけません。CAクラスタは皆仲間です。お互いを理解する為にも、よく歴史を学ぶのです。
僕のこの記事も、新たな歴史へと紡がれれば冥利に尽きます。
今回の記事はここまで。
それでは、次回の記事までごきげんよう。