散々コメント職人という存在をアピールしておきながら「コメント職人は存在しない」とは、随分と思い切った発言をしたものである。あ、いや、これは俺が言った訳ではなくまー君がこちらの記事にて挙げた、お題の具体例です。
ほう。どれも面白そうなお題だ。特にコメント職人は存在しないなど、頭の中をよぎった事すらなかった。なんせ俺は、職人自称する事は恥ずかしい事だと言われているこのコメント文化の中で、メチャクチャ職人職人と連呼してきた人間だ。多分monmonさんの次くらいにコメ職人という言葉を使っている。
コメント職人と非コメント職人の間に明確な線引きをする思想の人間なので、境界線など無いと主張するまー君の意見は斬新だ。考えた事すらなかった。ならばこの機会に考えてみるのも一興。それにこのお題に答えた記事を書けば、熱心な読者を最低でも一名確保できるし。
俺自身の個人的な思想は一旦脇に置いといて、何故まー君はこのような命題に至ったのか、予想して考えてみよう。言うなればこれは俺の脳内裁判の記録だ。「コメント職人は確かに存在する!」と主張する検事席から一旦離れ、まー君側について弁護席から「異議あり!! コメント職人は存在しない!」と主張するとしたらどんな論理展開になるのだろう。
俺の弁護がドンピシャリでまー君の言いたい事を言い当てたのであれば、まー君なんかください。全然かすりもしなかったら、俺のオリジナリティ溢れる新たな命題が生まれたという事で、良く解らんけどとにかくヨシッ。
そんなこんなで本編に入っていきましょう。
形ある物に実体はない
まー君がどのような思考プロセスを経てこの命題に辿り着いたかは解らんが、仏教で言う所の「色即是空(形あるものは空っぽ)」的な思考をすれば、同じ命題に辿り着く事は可能。定義そのものを弄ってしまえば、存在しないと主張する事はいとも容易い。一瞬にして裁判の決着がついてしまった。終わり! 終了! 閉廷!! 早くもこの記事は終了ですね。
一応順を追って説明しましょう。
例えば、です。
例えば今俺はパソコンを使ってこの記事を書いている訳ですが、なんとこのパソコン実は存在しないんですよ!
・・・・・・・・・・・・・・・・
色々なツッコミを無視してもう少し説明を続けます。パソコンには様々な部品があり、それぞれ名前がついている。キーボードだったり、ディスプレイだったり、ハードディスクだったり、マザーボードだったり。しかし、どこにも「パソコン」なる物体は存在しない。
ハードディスクがパソコンなのか? いや、ハードディスクはハードディスクであってパソコンではない。ディスプレイがパソコンなのか? いや、ディスプレイはディスプレイであってパソコンではない。一体どこにパソコンが存在しているのか? どこにも存在などしていない。
この「存在しない」という事については、もっと大きい物で説明した方が解り易いかもしれない。例えば友達が、バイクに乗ってあなたの所にやってきたとしよう。
「新車買ったんだ! 見てくれよ、凄いカッコイイだろ俺のバイク!!」
「どこにバイクなんかあるんだい?」
「これだよこれ! 目の前にあるだろう!」
「いや、君が指さしているのはバイクじゃなくてハンドルだよ」
そんな感じで友人は色々な所を指さすが、その度に「それはバイクじゃなくてメーターだよ」「それはバイクじゃなくてタイヤだよ」と繰り返していく内に、どこにも「バイク」なる物体は存在しない事になってしまいました、めでたしめでたし。どんなに必死になってバイクを指さしたとしても、その指さした先にあるのは「バイクではない何か」しかないのです。バイク以外はあるけどバイクだけはどこにもない。
パソコンやバイクだけでなく、これ世のありとあらゆる物は「独立した確固たる永遠普遍の物体」が存在している訳ではない。様々なパーツの集合体からなる概念に対して、恣意的に(勝手気ままに)名称を付けているにすぎない。
様々なパーツと言ったが、このパーツですらも恣意的な区切りに過ぎない。そこに論理的な必然性はないのです。どこかの誰かが「ここからここまでは『タイヤ』と呼びます」「ここからここまでを『ハンドル』と呼びます」と、勝手気ままに決めたものだ。それらの部品ですらも、所詮は原子の集合体に過ぎない。原子をバラバラになるまで分解したら、途端にタイヤもハンドルも消えて無くなってしまう。それはハンドルじゃなくて原子だよ、と。
ならば原子は、独立して確固としたカチカチの「物体」として存在しているのかというと、やはりそんな事は無い。原子は原子核と電子という、これまた別の区切りによって名付けられた物の集合体だ。そしてその原子核すらも、陽子と中性子なる物体の集合体であり、その陽子ですらも・・・・・・・以下無限に分解され続けていく。
詰まる所我々は、「ある要素の集まりからなる、ある部分を、勝手気ままに切り出して、そこに名前を付けているだけ」であり、その名前にあたる物が「恒常的で独立したなにか」としてそこに存在している訳ではない。勝手に名前をつけられた概念だけがそこにある。
だから今俺の目の前にあるパソコンは存在しないし、机も存在しないし、家も電気スタンドも、何なら私もあなたも存在しない。勿論コメント職人なるものも存在しない。
これが、仏教における色即是空の超乱暴な解説になります。
縁 (間接的原因)によって生起する
「これが! ここに居るこの存在こそがコメント職人だ!!」と、ビシッッッと指させるような「独立して普遍的な確固とした何か」の様なものは存在しない。外界から完全に切り離された何かが、独立して存在している訳ではない。全ては相互に作用しあい変化し続けている。
あらゆるものは、相互に作用しあい、その関係性によって生滅を繰り返しているという「状態」にすぎないのです。万物は流転する。
生まれては滅び、滅びては生まれを繰り返している万物ですが、その生滅には必ず原因がある訳です。目に見えて結果に影響を与える直接的な原因から、その直接的な原因を生じさせたり助けたりする間接的な原因まで。
何か一つの出来事でさえ、それを成り立たせるには数えきれない無数の事象が関係している。その無数の事象がどれか一つでも欠けていれば、その出来事は違ったものとなるし、極端な話その出来事自体が無かったかもしれない。
例えば、「コメントアートを作る」という現象でさえもそうだ。もしもあなたがコメントアートを作っている最中だったとしたら、あなたはこの現象を自分一人の力と意志だけで引き起こしていると主張するかもしれない。しかし実際には、「これを作りたい!!」と思える様なキッカケとなる元絵や動画に出会わなかったとしたら、作って居ないはずです。
また、それらの元絵や動画を作るクリエイターが居なかったら、出会わなかったら、もしもニコニコ動画に出会ってなかったら、そもそもニコニコ動画というサイト自体存在していなかったら、コメントアートを作るという現象は発生しない。当然コメント職人も存在しない。更にはコメントアートを作る為のPCだって、そのパソコンを作った誰かがいるからそこにあるし、ネットに繋がる電話回線を作ったり維持している人がいるから受信送信できる。
こんな感じで、たかが「コメントアートを作る」という単純な現象一つを成り立たせるだけでも、「この元絵を作りたい!」という直接的な原因だけでなく、背後にあるとんでもなく大量の間接的な原因が複雑に絡み合ってようやく成り立っている。
因みに、この間接的な原因の事を、仏教用語では「縁」と呼びます。
あらゆる物が縁によって関りあい生滅を繰り返していますが、CAブログなので目に見えてCAに関係する具体例に絞って書いていきましょう。
コメント職人がコメント職人として成り立つ為には、膨大な縁が絡みあう必要があるのですよ。動画に貼られたCAや歌詞を見て「え!? コメントってこんな事ができるんだ!!」という先人との「縁」が無かったとしたら、あなたはコメント職人になっていましたか?
CAwikiやCAブログとの「縁」が無かったとしら、今の知識と技術を身につけられましたか? 一緒に頑張ったり遊んだりする仲間や、こいつにだけは負けたくないというライバルとの「縁」が無かったとしたら、今も続けていますか? 自分の作品を見て感想をくれる視聴者との「縁」が無かったして、それでもあなたはコメント職人として居続ける事ができますか? そもそもニコニコがサービス終了して「縁」が完全に途絶えたら、コメント職人は一人も残らず完全に消えてしまう。
縁が全て途切れた時、コメント職人はコメント職人で居続ける事は出来無いし、膨大な縁が複雑に絡み合ったその一瞬の間だけ、コメント職人はコメント職人という「状態」であり続ける事ができる。
因みに、縁によって他と繋がり、関係が出来る事によって生起する事を、仏教用語で「縁起」といいます。一切の物事は、縁起によって生まれては滅びを繰り返している「状態」にすぎない。あるのは、縁によって絶えず変化しているという「状態」であって、それ自身に「実体」といったものは存在しないのです。故に、コメント職人は存在しない。そもそもコメント職人どころか、全ての物体は存在しないんですけどね。
因みに俺は仏教に関しては門外漢です。自分で深く掘り下げて理解できていないものを、他人に解り易く説明する事はできない。ひょっとしたら、専門用語が解り辛かったのでもっと解り易く説明して欲しいって箇所があるかもしれません。
その場合は、一切遠慮せずガンガン質問して下さい。スカイアロー君に。餅は餅屋に、仏教は仏教徒に任せよう。俺に任せてはいけない。
上の一文も、俺とスカイアロー君の「縁」がなかったら生まれてこなかった。同様にこの記事全体も、数えきれず目に見えない無数の「縁」によって誕生しています。俺の人生が、今の縁とは全く別の縁で繋がっていたとしたら、全く別の記事が誕生していた事でしょう。いや、その場合はそもそもCAブログに書いたりしてない可能性の方が高い。でもお陰様で、今読んでいるあなたとも縁が繋がりましたね。こんなオッサンと繋がりたいかどうかは別として。
まー君の行動原理
以上が「コメント職人は存在しない」という命題に対する仏教的な解答です。
俺自身は「異議あり!! コメント職人は確かに存在する!」という立場であるが、今回は逆転裁判3の最終話のみっちゃんの様に、検事として立証するのではなく、立場を180度変えて弁護席でまー君の弁護をしてみた。
で、立場を変えてアレコレ考えてみたら、今まで全然見えなかった物が見える体験が出来てクッソ面白かったです。記事内容が面白いかどうかは保証しないが、俺自身はとても面白かったと保証しましょう。太鼓判です。
書く前には気付きもしなかった事に気付き、マヤ解っちゃった状態になったのでその事についてもう少し書き綴っていきますよユーコピー?
書いている最中一体何に気付いたのかというと、まー君は物凄く「縁」を大切にする人間なんだな、という事。ああ、だからまー君はああいう振る舞いをするのか、という引き籠りがちの俺には理解不能だった部分が少し理解できた気がする。
まー君が合作の企画をしたり参加したり、新人見つけて積極的にナンパを仕掛けたり、運営と密に関わったり、祭りの切り込み隊長を買ってでたり、ツイートまとめで外部に発信したり、LT企画を立ち上げたりといった行動は全て、縁をとても大切にしているから、で説明がつく。
あらゆる縁があったからこそまー君はまー君であり続ける事が出来るし、まー君はコメント職人であり続ける事が出来るのだ。
これはまー君と対極に位置する俺と比較する事によって、より明確に、より浮き彫りになっていきますよ。コメント職人が存在すると主張する事は、川の様に絶えず移ろいゆくこの世界の一部を恣意的に切り取って、「ここからここまでがコメント職人。ここから先は非コメント職人」と、明確な境界線を引く行為である。
コメント職人と非コメント職人。これらは明確に別の存在である、と。以前の記事でも述べましたが、俺自身の考えとしては才能が無い人間はコメント職人になれないと考えています。具体的にどんな才能なのかというと「1時間でも2時間でも、長時間コマテと向かい合って黙々と作業し続ける事が出来る才能」です。
この才能が無い人間がコメ職人になろうとしても、「うわやだメンドクサイ。なんかボタン一つで『職人スゲー!!』って言われるツールは無いの?」って展開になるのでコメント職人にはなれない。必ず通らなきゃいけない道を通れないのだから、なれる道理なし。熱いのが嫌な人間は、厨房に立って料理人になる事は出来ないのですよ。
この才能がある人間がコメント職人になるし、才能がなかったら非コメント職人だ。なので自分がコメント職人になれたのは「俺の」才能、「俺の」素質、「俺の」力があったからこそだと考えたくなる。しかし縁の立場から見てみると、これは極めて傍若無人で傲岸不遜な振る舞いに他ならない。
才能云々じゃなくてたまたまなんだ。コメント職人はたまたまCAに縁があったからコメント職人になった訳だし、非コメント職人は縁がなかっただけの話。長時間のコマテ作業に耐える事だって、ひょっとしたら必要なのは才能云々ではなく「コマテ辛ぇわ」「わかる~~」と愚痴をこぼしあえる同志との「縁」かもしれんし、「制作生でもして、誰かと喋りながらやればいいんじゃないの」というアドバイスをしてくれる先輩との「縁」かもしれん。
縁によってたまたま成り立っているに過ぎないのに、それら全てを忘れ、全部自分一人の力で成し遂げたとする傲慢な思い上がり。
順番だけの問題なんです。たまたま自分の方が先に必要な縁が全部揃ったから、自分がコメント職人になっただけで、お互いの順番が逆なら逆の立場もありえる。もしもまー君が「才能の無いやつがやっても無駄」と考えているのであれば、新人をナンパしたりはしない。コメント職人と非コメント職人の違いは縁があるかないかだけで、そこに明確な境界線など無い。自分は数えきれない無数の縁によってコメント職人になれたのだから、今度は自分が縁を繋いでいき、独りで苦しんでいる人に手を差し伸べる番だと。
何故「コメント職人は存在しない」というお題なのか?
さて。「コメント職人は存在しない」という肝心要の本題はとっくに書き終えてるのでもう終わってもいいのだが、最後に一つだけ考えておきたい事がある。
それは、「何故まー君は『コメント職人は存在しない』というお題を掲げたのか?」という事。よりにもよって。コメント職人がコメントアートについて語るこのブログの記事で。
ひょっとしたらまー君は、コメント職人と非コメント職人の間にある境界線を無くしたいんじゃなかろうか、と予想してみる。特に、最初期からニコニコに居るコメ職人には、この思想が強い人が多いし。俺みたいな人間は、その最初期の世代より後の世代で、「うわぁ、俺もコメ職人になってみたい!」と自分から境界線の中に飛び込む事が目的で始めたから、そう言った思想は弱いんですけどね。
これは歴史的な観点から話していきましょう。
ニコニコの創成期には、コメント職人・非コメント職人という明確な境界線などなかった。ただ「ニコ厨」だけがいた。誰も彼もがニコニコ動画に参加し、コメントし、盛り上げ、お祭り騒ぎで共に動画を作っていく「俺らはニコ厨と」いう独自のコミュニティが形成されていた。
しかし、ここにコメント職人という「存在」が現れ、その存在が強くなればなるほど、境界線は強くなっていき「俺ら」のコミュニティは分断されていく。「俺ら」と「君ら」にだ。
「『君ら』は頑張ってコメントして盛り上げてくれ。『俺ら』はそれを見ているから」
同じニコ厨のはずなのに、手間暇かけたコメントをするニコ厨と、普通のコメントをするニコ厨に分断される。
これを普段見かけるコメントに置き換えてみると、
「コメント職人がコメントしている間は、みんなコメントすんな!」とか、
「コメントアートが流れるから、俺らはコメントしないようにしようぜ」とか、
あるいは「やつらの一般コメのせいで俺のCAが崩れた!」とかですかね。
これらは分断された結果生まれてくるコメント群だ。「俺ら」と「君ら」の間には通過する事が困難なベルリンの壁よりも分厚い境界線が引かれ、お互いが別々の「存在」として認識される。
それはちょっと違うのではないかい、というのがまー君がお題を通して伝えたかった事ではなかろうかと予想する。「俺ら」はニコ厨だし、「君ら」だって同じニコ厨だ。同じなんだから君らにだって、動画を盛り上げたり皆を楽しませたりする事が出来るし、なんなら俺らみたいに少し凝ったコメントを作る事だって出来るんだぜ、と。
コメント職人と非コメント職人の間に境界線などない。ただニコ厨だけがそこにいる。
両者を分ける境界線などないのだから、当然「コメント職人は存在しない」。
終わりに
今回は、まー君がLT会の具体例として出したお題の一つに応えてみました。因みにLT会に参加する場合は、上記の内容を4分程度に納めなくてはいけないらしい。
いやぁ、きついでしょ。
話を短くまとめるって、俺の一番の苦手分野ですわ。逆なら超得意分野なんですけどね。なので俺は変わらず、自分の本領発揮できるブログの方に引き籠り続けます。
この1年間の俺は、ウマとの強すぎる縁により、ひたすらウマおじさんと化していた。コメント関連は縁が薄まって疎遠になっていたのだが、今回まー君の記事により縁が発生し、凄い久しぶりにブログを書く運びになりましたよ。自分で設定したお題ではなく、他人が用意したお題に答えるという営みも、中々に面白い物でした。
書きたいだけ書いたので、今回の記事はこれにて終了。
それでは、縁があったら、また次回の記事でお会いしましょう。