「本書で展開される議論はすべて、重要な基本原理に帰着する。それは、人間の多様性がもっとも豊かに発展していくことこそ、絶対に大切だという原理である」
ヴィルヘルム・フォン・フンボルト「政府の権限と義務」
歴史を学ぶ意義
人間と他の動物を分ける物は何か?
人間と他の動物を分けるものはいくつもあるが、その中で重要なのは歴史を知っているか否かです。人間は過去の蓄積である歴史を次世代に伝承する事が出来るが、動物は出来ない。それどころか、前日に起きた出来事を覚えているかどうかすら怪しい。過去の失敗から学んだり、学んだ事を子供に教えたりする事も相当に難しい。
しかし人間は違う。人間は自身の過去だけでなく、他人の過去をも蓄積し、それを利用する事ができる。それが人間の特権であり宝であり、人間である印だ。だからこそニーチェは、超人を定義して「最も記憶力の良い人間」と呼んだのであろう。動物と違って人間は、生まれてきた時点で過去の蓄積という遥か高みに立っているのです。
例えば、現代に生まれたというただそれだけの理由で、現代人は大昔の医者よりも遥かに医学に詳しい。石鹸で手洗いをして、皆がマスクをすれば伝染病を大幅に予防できるという事は、幼稚園児ですら知っています。伝染病を予防するには、魔女を火あぶりにするか神に生贄を捧げるしかないと考えていた時代の人間では、とうてい太刀打ちできない医学知識の差だ。
動物には「進歩」という概念も現象もない。今いるチンパンジーは5000年前も全く同じチンパンジーのままである。それに対して人間は、5000年もあれば5000年分の蓄積により、全く別の生きた方をする生物にまで変化している。
故に、過去との連続を断つ事、つまり全く新しく事を事を始めようとするのは、人間をチンパンジーにまで落ちぶれさせ、チンパンジーの生き方を真似する事に他ならない。
もしも誰一人として、コメント仕様や制作技術や実践例や失敗談を残さず、自分さえ知っていればいいやの精神でいたとしたら? その場合、新規に始めた人はチンパンジーからスタートする事になるだろう。まずは棒を使ってバナナを取る所からスタートだ。過去の蓄積という高みに立つ所の話ではない。
幸いな事にコメント文化はそんな事にならず、人間からスタートする事が出来る。検証や試行錯誤の末に身につけられる知識を、自分だけに閉じ込めず公開して残してくれる人達が居たからだ。コメントアートwikiは、どこかの誰かが検証してきた事や実践してきた事の歴史でもある。
個人的な経験談を話すのであれば、例えばCAブログのこちらの記事。
こちらの記事で、かい⑨さんが試行錯誤してきた歴史をまとめ、誰でも使える形に直してくれたお陰で、俺でもすぐに使いこなす事ができました。もしもかい⑨さんが、自分一人だけがやり方を知っていればいいやの精神で何も残さなかったら、俺はバナナ目指して棒を振り回すチンパンジーからスタートしていた事であろう。そもそもそんな所にバナナがあったなんて知らなかった!
最近登場したコメの新技術「加算流色スライド」と「ボラギノール」。この2つの技術を使ってなんか作りたいという衝動を抑制できなかったので、作ってきました。#コメントアート pic.twitter.com/YZVqeYrgvG
— メモ帳 (@philo_77) May 23, 2021
歴史ってのは、どこかの誰かが学び、挑戦し、試行錯誤してきた事の積み重ねです。この盤石の土台があってこそ、新たなる歴史を積み重ねる事ができる。動物にはこの「積み重ね」は無いので、何万年経っても同じ生活をする事になる。今現在のコメントアートの世界は、誰かの積み重ねの上になりたっているのです。歴史を残す事は、未来を作る事に繋がっている。
歴史を残す意義と歴史を学ぶ意義がここにある。我々は人間として生きようではないか。
過去を知らぬ者は過去の呪縛に囚われ続ける
とは言っても、単純に歴史を学ぶだけで物事が上手く運ぶ事はまずない。時代が違えば、置かれている環境も状況も当然違ってくるからだ。ウクライナに侵攻してくるロシアに対抗する為、第2次ポエニ戦争における名称ハンニバルの戦術を学んだり、墨俣の一夜城の作り方を学ぶのは、完全なる時間の無駄だ。戦車や機械化歩兵やドローン兵器が戦場を飛び交う時代に、騎兵や白兵時代の戦術を学んで一体何の役に立つというのか。
歴代フラッシュプレイヤーが全て廃止され、HTML5プレイヤーになった現在。こんな現在において、改行コマンドをミスなくスムーズに入力する方法を学んだり、ニワン語の「repleca」を使って一般会員でもカラーコードを自由に使える方法を学んでも何の役にも立ちませんね。時代が違いすぎて、ロストテクノロジーだ。
直接の役に立たないというのであれば、何故歴史学者は過去を研究するのか?
それに対する回答はイスラエルの歴史学者、ユヴァル・ノア・ハラリの著書「ホモ・デウス」に記されている「芝生小史」が的確に答えています。この芝生小史があまりにも見事な名文なので、立ち読みでもいいから実際に読んで見て欲しい。大型の本屋にいけば、必ず置いてありますから。
丸ごと引用するとクソ長くなるので、「芝生小史」の要点をかいつまでんで書くとこうなる。カットするには惜しい名文だから、カットし切れず長くなる予定ですが。
アメリカのホームドラマでも映画でもお馴染みの光景だが、アメリカの中流階級は芝生が生えた庭付き一戸建てに憧れる。これは国境を超えて日本でもそうです。ニッポンのサラリーマンの多くが夢のマイホームを建てる時、当然の様に青々とした芝生が生えた庭付き一戸建てを想像する。
実際に住んだら住んだで、のび太のママの様にグチグチ文句をいいながら草むしりをして、芝生の手入れをしなくてはいけないのにも関わらず、それでも芝生に憧れる。
日本には、竜安寺等に代表される手入れの不要な「岩造りの庭」という文化があるにも関わらず、わざわざメンドクサイ手入れ必須な芝生付きの庭を作るのだ。
何故中流階級は芝生付きの庭に憧れるのか? その答えを芝生付きの庭に住んでいるカップル達に聞いてもあまり意味がない。何故なら、本人もなぜ選んだのか解っていないからです。
その答えは、歴史の中にあります。中流階級が芝生付きの庭に憧れる理由は、芝生付きの庭は富と権力の象徴だからだ。
そもそも人類史において、芝生付きの庭は15世紀のイギリスやフランスの貴族階級の城館で誕生した。それ以前の人類は、庭に芝生を植えようと言う発想すらなかった。縄文人は竪穴式住居の前に芝生を植えたりしなかったし、古代ギリシャ人もパルテノン神殿前に芝生を植えたりしていない。
手入れの行き届いた芝生を確保するには、莫大なコストがかかったのだから当然だ。しかしそこまでコストを支払いながらも、芝生は見返りに何も用意してくれない。豊かな実りで腹を満たす事もなければ、綺麗な花で楽しませてくれる事も無い。しかも芝生がある庭では家畜を育てる事すら出来ない。家畜が芝生を踏み荒らしたり食べ尽くしてしまうからだ。
貧しい農民には、貴重な土地や労力を芝生に投資する余裕は無かった。それ故、大邸宅の玄関を飾る小奇麗な芝生は、誰にも模倣できない富と権力のステータスシンボルになったのだ。それは通りがかる人全てに
「私は途方もない金持ちで有力者なので、土地も農奴も庭師も有り余る程持っている。だからこの芝生を維持する事が出来るのだ」
というメッセージになる。逆に没落し始めると、手入れをする余裕もなくボサボサに伸び切った芝を放置したままになる。芝生の状態を見れば、その貴族の繁栄状況が見事に解った訳だ。
この中世貴族の文化は、今では世界中に拡がっている。あなたもきっと、見事な芝生が生えたホワイトハウスの庭で、大統領が演説する姿をニュースで見た事が有る事でしょう。現在、権威を主張する建築物の前には豪華で手入れが行き届いた見事な芝生が、これ見よがしに植えられているのです。
あなたが大学生なら、今通っている大学にもきっと「立ち入り禁止」の物々しい看板と共に、立派な芝生が生えている事でしょう。
スポーツの世界でも、プロの公式試合の多くは芝生の上で展開される。公立高校の運動部は土のグラウンドで泥まみれになりながら練習するのに、一流私立高校の運動部は全面芝生の環境で練習している。
この様な歴史を積み重ねた結果、人類は芝生を政治的権力や経済的豊かさや社会的地位と同一視する様に刷り込まれた。芝生に手を出せるのはごく一部の選ばれし者だけ。貧乏人には決して踏み入れる事ができない世界の象徴だ。
しかしこれを変える2大発明が誕生した。「スプリンクラー」と「芝刈り機」の2つだ。これにより多くの中流階級が自宅に、憧れの芝生付き庭を持つことが出来るようになった。そして芝生は金持ちの贅沢品から、アメリカ中流階級の必需品になったのだ。芝生の庭でバーベキューするアメリカ人の映像なんて、親の顔より見た光景ですね。
これが「芝生小史」の概要です。
さてさてさて。
この小史を聞いた後に、あなたが夢のマイホーム計画を練るなら、ちょっと考えて見てもいいかもしれないですね。何故自分で欲しいと思ったのかすら解らず、「何となく」芝生の庭をイメージしている可能性が高確率でありうる。手入れがメンドクサイし、虫が湧くし、忙しくて手入れをちょっとでもサボると客人を招くのが恥ずかしくなるにも関わらずだ。
先の章で「人間は、生まれてきた時点で過去の蓄積という遥か高みに立っている」と書いたが、これは同時に強力な縛りでもあるのです。歴史はあなたの意志とは無関係に、あなたに行動を強いる縛りとなる。
勿論、芝生を植えるかどうかはあなたの自由です。しかし同時に、歴史を知ったあなたは歴史の重荷をあえて解き放ち、日本式岩造り庭園や全く新しい庭を構想する自由も手に入れた事になります。
歴史を学ぶ最高の理由がここにある。というのが著者ハラリの主張です。過去を知る事は、過去の呪縛から自らを解放する事に繋がっているのです。
勿論、人間は完全に歴史の呪縛から解放される事はできない。それでも、少しでも選択の自由がある方が全く自由がないよりも勝る。と、ハラリは述べる。
さて。
芝生小史はここまでにして、話をコメントアートに戻そう。
例えば、コメントアート界隈の最大勢力間では「空気読め」というドグマが世代を超えて綿々と受け継がれている。もしもあなたがこの「空気読め」というドグマが、どの様な経緯で誕生し、どの様な時代背景の故に広まり、どの様な理由で受け継がれていったのかという歴史的背景を知らないのであれば、あなたはこの呪縛に囚われ続ける事になるでしょう。
勿論、ドグマに従うかどうかは依然としてあなたの自由です。従う恩恵も多々ありますから。ですが、「果たして自分は空気が読めているのだろうか・・・・」と神経質になりすぎて制作・投下を断念するくらいなら、歴史の呪縛から自らを解き放ち、別の選択肢を選ぶ自由があってもいいと俺は思うのですが、どうでしょう。
歴史を学ぶ面白さ
歴史を学ぶ意義や理由だけでなく、面白さについても言及しておきましょう。
歴史を面白がるのは、「あ~~懐かしい懐かしい」とノスタルジィに浸りたいオッサンだけなんじゃないかという、ナウなヤング達が持ってそうな偏見の目を払拭しておきたい。まあ、強くは否定しませんけどね。
以前、俺を含めたコメントアート界隈のオッサン達限定で会合を開いた事がある。加齢臭が充満してそうな集まりだ。そんなメンバーが集まると必然的に話の中ですげぇ懐かしい単語がポンポン出てくるが、その懐かしい単語の説明を一切する事なく会話が成立するので、とても盛り上がった。いやぁ、昔話に花を咲かせる事が出来るメンツが揃っているというのは、実にいいものですね。
ひょっとしたら、昔話をありがたがるのはオッサンばかりというのは、偏見の目ではなく真実を見抜く目なのではなかろうか閑話休題。
こんな話だと、懐かしむような過去を持っていないナウなヤングにとっては、歴史なんて何の面白みも無い代物に感じてしまうだろうが、勿論そんな事は無い。歴史を学ぶ事によって「今」が面白い物になってきますよ。歴史を知らないと今をとことん楽しめないというのを、ちょっと例え話で説明してみましょう。
例えばあなたが、今凄い夢中になって連載を追いかけているマンガがあったとしましょう。いつも来週号の発売日が待ち遠しくて堪らない程夢中になっている。そしてその熱量のままで友達に「超面白いから絶対読んだ方がいいよ!」と布教活動も行ったとしましょう。
で、その友達がオタク特有の早口に気圧されてそのマンガを読んだ。勿論あなたは感想が聞きたくて聞きたくてしょうがない。そこで友人が「今週発売の最新話を読んだけど、誰が誰だか分かんないし、今何をやっているのかも解らなかったので、つまんなかった」と言ってきたら貴方はなんと返すか?
「いや、ちゃんと第一話から順に読めよ!!」
いきなりストーリーの途中から読み始めてストーリーが理解できる訳がない。『進撃の巨人』の様に、丁寧に積み重ねてきた布石や伏線を綺麗に回収していく緻密なストーリー漫画であれば尚の事。一話から順に追いかけてきた人には「あの〇〇話の思わせぶりなセリフはこういう意味だったのか!」みたいに驚いているシーンでも、その話を知らない人が読んだら「フーン」で読み流してしまう事だろう。
試しにやってみましょうか? オッサンなら誰もが知っている超名作漫画「スラムダンク」のワンシーンを張り付けてみます。
これは、当時読んでいた読者に「マジかよ!??」「えええええええ!!!」と衝撃を与え、この後思わずハイタッチして感動のあまり、登場人物の晴子さん並に号泣する事になる屈指の名シーンです!!!!
・・・・・・・・・・と、早口でまくしたてた俺の熱量に反比例して、読者のあなたが冷めていく様子が手に取る様に解りますわ。この熱量の差よ。バスケ選手がチームメイトにパスをしているだけのシーンじゃん。一体どこに衝撃を受ける要素があるというのか。
ちゃんと最初からストーリーを追いかけている人間と、マンガの最終巻をいきなり見せられた人間では当然リアクションは違うわな。いくら最終巻が感動するからと言って、最終巻から読み始めて感動できる訳がない。
過去の歴史を知らないって言うのは、こういう事です。
コメントの歴史を知らず、今まさにコメントアートを始めたばかりの人というのは、いうなれば全16巻の物語をいきなり15巻目とか16巻目から読み始めた状態なのです。コメントアートには既に16年の歴史がある。
勿論、途中から読んでも充分面白いのだろうが、そこに至る伏線や布石をしっかり理解していた方がもっともっと面白い物になりますよ。
ここら辺を強く感じた最近の具体例は、oztoさんのこちらの記事ですね。
興奮したoztoさんがその熱量のまま、凄い勢いで書き上げた記事。同じ動画を見ても「わー、すげぇ」とかのショボイ感想しか出て来なかった俺に反比例したこの熱量の差よ。
この熱量の差が何によって生じているのかというと、この動画が誕生するまでの歴史の重みを知っているかいないかの差によって生じる。
oztoさんはCAwikiの制作等で、「誰でもCAを作れる様に」という環境作りに貢献してきた人間だ。極一部の人だけが、コメントの知識やツールやノウハウを独占する状態を打破し、独学でも豊かな実りを得られる様な土壌を作る為、コツコツと土地を耕してきた。
で、その結果この動画が誕生したって訳よ。
この動画は空気の様にポンと湧いてきたのではなく、oztoさんが耕してきた土壌に根強く生えて豊かな実りを生み出した。この動画は、血統的にはoztoさんの産駒にあたる。産駒の中からこんなG1クラスの化け物が誕生したらそりゃぁ興奮するわ。
同じく、この動画で使われたCAツール製作者のどーもさんも興奮していた。興奮のあまりその勢いのままでうp主のツイッターをフォローするくらいに。恐ろしく速いフォロー。俺でなきゃ見逃しちゃうね。
この動画は「ozto × どーも」という、ビジュアルだけをイメージすると地獄絵図の様なオッサン達の掛け算によって誕生した産駒なのです。この動画が誕生するまでに耕してきた苦労を実感している二人と、それ以外の人では、熱量の差が生まれてくるのは当然と言える。感動の最終話を読んでも、最終話「だけ」読んだ人間が感動できる訳がない。
うp主であるアボガド6さんの、予想されうる動画制作プロセス。
動画の構想を練る。
動画の元絵を描く。
描いた元絵をコメントでトレースして動画にする。
完成品をアップする。
なんか余計なプロセス一つ多くない? アボガド6さんは、ガチ本職のアーティストな訳だから、いくらでも絵を描けるし、絵だけで動画を作れば余計なプロセスを省いて、もっと簡単に作れたはずであろう。この動画は隙間時間にコツコツ作り続けたから、制作期間は一年くらいになるそうだ。
でもそんな余計なプロセスを経てでも、この表現方法がこの上なくベストな表現だと判断して「あえて」コメントアートを選んだ訳です。選べるだけの土壌を耕してきた人達の歴史があってこそだ。
こういう極端な温度差が生まれそうな作品は、俺の中にもあります。14年ほど前。今の中学生が赤ん坊だったかオカンの腹の中にいたであろうくらいに昔の話。
とある投コメ動画の話だ。普段こんなに長々ベラベラと喋りまくっている身の上のクセして、初見の時は衝撃の余りに言葉を失い、そのままポカンと口を開けっぱなしで茫然としたまま動画を見続け、頬を伝う涙が何に由来する物なのかも解らないまま号泣し続け、延々リピートし続けた投コメ動画があるのです。
もしも俺が歴代投コメ動画ランキングを作ったら、間違いなくトップ3に入る作品。
これ聞いて「そんなに凄い動画あるなら見てみたい」と思ったとしましょう。現存するキャプチャをペタリと貼るだけなら1分以内に終わる簡単なお仕事。
でもいきなりこの動画「だけ」を見たとしたら、「え・・・・、あ・・うん。確かに凄いね・・・」みたいな酷く微妙なリアクションが返ってくる事が目に見える訳ですよ。「ドュフフフww この動画は非常に感動物でござるよ(ニチャァ」って紹介した時と同じリアクションが!
その動画がどの様な経緯で誕生し、うp主がどの様な挑戦をして成長してきたのかという歴史を踏まえて一緒に紹介しないと、この俺が受けた感動の100分の1も伝わらない。この動画の感動を共有できる人間は、血縁関係は無くてもブラザーだ。
歴史の教養が無くても今を楽しむ事は出来るが、教養があるともっともっと面白くなります。もしもあなたが周囲との熱量の差を如実に感じるのであれば、その隔たりを埋めるのに歴史が役に立つ事でしょう。その様な動機で書かれた記事であれば、多分面白い記事になると思います。
目玉の数さえ充分にあればいかなるバグも問題ではない
そんな訳で歴史を残すべく、「コメントの歴史」カテゴリを運営長代理のえねこさんに新設して貰いました。歴史を補完する為、願わくば、より多くの人に書いて貰いたい。
「でも俺は、人に歴史を語れる程、コメントの歴史なんて知っている訳じゃないし・・・・」
という躊躇いが出てくる事は重々承知しています。しかしそれは、クソデカ主語を使っている事から生じる誤認です。「コメントの歴史」なんてバカでかい物を把握している人間なんて、現状ただの一人として存在しません。誰もが初心者であり誰もが無知です。五十歩百歩なドングリの背比べです。誰一人として、神の視点でコメントの歴史を語る事は出来ません。
「群盲象を撫でる」という諺があります。
群盲と言うのは読んで字の如く、目が見えない盲人の群れです。もしも目の見えない人達が動物の象を触り、彼らに象とはどんな生き物かと問うたらどうなるか?
耳に触った人は「やたらと平べったい生物だな」と言い、
足に触った人は「丸太よりも太い生物だな」と言い、
鼻に触った人は「蛇の様に細長い生き物だ」と言う。
誰も彼も言っている事は正しいのだが、結局の所象はどんな生き物なのか、1人だけの意見しか無かったら全体像は見えてこない。
コメントの歴史にしても、長くやっているオッサンから新しく始めたナウなヤングまで、関わって来た時間に比例して歴史を見てきた訳だ。ただし、1人の人間に備わっている2つの目と耳だけで知れる事には限界があります。神の前において我々は皆、等しく群盲なのです。
「俺なんかが歴史を語ったら、間違いを訂正されてボコボコにされるんじゃ・・・・」
という心配が出てくるかもしれませんが、自身の五感を通して体験した事を書けば、何を書いても間違いにはなりません。象の鼻に触った人が「象は細長い生き物なんだ!」というのは何も間違った事を言っていないのです。他の人の歴史と食い違ったとしても、ただ他の人と見て来たパーツが違うだけの話。どちらも歴史の一部である事に変わりはない。
むしろ、他の人と違う体験をして他の人と違う意見を述べる人こそ、貴重で重要な存在たりうる。皆の視野を拡げ、正しく歴史を補完するには必要不可欠な存在なのですから。誰もが自由に発言でき、多様性を確保する事が歴史を記す上での最優先事項。
歴史カテゴリを新規作成後、4日間で4つの記事が投稿されるという事態になったが、俺を含めて誰も彼もが「15年前の事を語るオッサンばかり」という多様性とは真逆のベクトルを突っ走る同一属性の人間が結集した! 幸いなことに記事は多様性に富んだ内容になっているのは救いだが、同一属性の人間の意見というのは、言うなれば全員が象の同じ部位を触っている状態です。
「象って、平べったい生き物だよね」
「そうそう、マジで薄い」
「間違いないね」
「ああ、それ以外に表現しようがない」
って感じに陥っている可能性を、常に否定できない。はるか昔を知っているオッサンしか歴史を書いてはいけないなんて決まりは無いですよ。むしろ逆で、コメントに関わったあらゆる人に遠慮なく自由に書いて欲しいし、それが必要なのです。歴史カテゴリは、他のカテゴリ同様、いかなる記事をも歓迎しています。
たった独りで全ての歴史を網羅するなど『絶対に』不可能。故に多くの、1人でも多くの参加者が生み出す多角的な視点が必要不可欠。これから書くあなたの記事が、コメントの歴史を生み出していきます。歴史はペンから生まれる。かつて誰もが成し得なかった、群盲を抜け出し神の視点を手に入れるプロジェクト、コメント補完計画。冬月、俺と一緒に、コメントの新たな歴史を作らないか?
崇高な理念から下卑た話へ
・・・・という堅苦しい理念は一旦置いといて。ここまでの話で伝えたかった事を、ぶっちゃけて要約すると以下の通りだ。
いいじゃん。もうみんなで昔の自分語りしちまおうぜグヘヘヘヘ。
こうでもしないと、話す機会ないでしょ? ほら、全部吐いて楽になっちまえよ。かつ丼食うか? 人前で自分語りをするなんてと足踏みしてしまうかもしれませんが、そもそも群盲である我々には自身の体験を通してしか歴史を語れません。
コメントの歴史なんてクソデカ主語で語れる人間は居ない。語れるとしたら「私が」見て来たコメントの歴史という極めて限定された範囲だし、それでいいのです。
そもそも歴史ってのは、誰かの足跡の事だ。何かを学び、成長し、挑戦し続けたのであればそこには必ず足跡が残っている。あなたの一歩が確実に、コメントの歴史の1ページを形作っている。世界中に散らばったドラゴンボールを集めるが如く、ネットの海に散らばった歴史の1ページを集める摩訶不思議アドベンチャーを行わないと、コメントの歴史は完成しない。
現状のコメントの歴史という書物は、ページが抜け落ちまくった返本不可避の落丁本です。ブックオフですら買い取ってくれねぇ。これから書くあなたの記事が、ページを補完し、コメントの歴史を形作っていきます。歴史はペンから生まれる。
もういっその事、歴史を言い訳にしてガンガン昔の思い出を語る場にしてもいいと思っています。その積み重ねが結果として歴史を形作る。それに、タイミングを逃し過ぎて「今更話題にするのは気まずいよ」と思って居る出来事いっぱいあるでしょ。
例えば、今更になって中曽根合作の思い出について語れますか?
匿名イベントについて語れますか?
組曲○○周年について語れますか?
歴史カテゴリならそれが出来る!
別に書いてくれるのであれば、歴史カテゴリに限定しなくても構いませんけどね。そもそも普通に記事を書くだけで、それがコメントアートの歴史になっている。2018年8月から続いているこの「コメントアートのためのブログ」は5年間の歴史を紡いできたし、これからも紡ぎ続ける。誰かが書き続け、運営長がサーバー代を支払い続ける限り、歴史は続く。
禁止事項は「多数派による専制」のみ
さてさてさて。
そんなこんなで、歴史カテゴリに寄稿してくれる人を募集する記事を書いてみました。書いてくれる人が多様であればあるほど、歴史カテゴリは価値と面白みが滲み出てくる事になる。こんな求人広告で人が集まるのかどうかは甚だ疑問ではあるが、何もしないよりはマシでしょ。何の宣伝もしていないコメ哲カテゴリは、5年かけて記事数が12本しかないし。オイ、既に記事数で抜かれてンぞ。
人を集めて何事かを成し遂げるには、目指す目的地と方向性を提示する事が欠かせない。「さあ、俺の船に乗り込め!!」というからには、その船がどこを目指しているのか知らなかったら乗りようがない。
なのでカテゴリを作った身の上としては「このカテゴリは、あのゴールを目指してこういう内容の記事を書いて下さい!」と提示する必要があるのだが、今の所そんなものはない。
なんせこのカテゴリは強い目的意識から作ったのではなく、「うわぁ、面白そう」という閃きと直観でそのまま衝動的に突っ走って作ったものですから。なんで面白そうだと思ったのかを、順を追って理屈で考えたら今回の記事ができました。作った本人ですら方向性が解らず暗中模索の記事です。そんな人間が他人に目的地と方向性を示せるはずがない。この記事内容ですら、アッチコッチに右往左往している有り様だ。今回の記事が書くのに過去一時間がかかりましたよ。
カテゴリについてあなたに言える事があるとしたら、「自由に書いて下さい」ってくらいですかね。それにその方がきっと面白い物ができると確信していますから。
とは言っても「さあ、思いのまま自由に書いて下さい!」と突き放すのは、いうなれば何も無い黒画面を前にして「さあ、あなたの好きな様に歌詞を作ってみて下さい」という様なもの。以前の記事でも書いた様に、何をやっても自由な環境では結局何も出来なくなる事が殆どだ。行動を起こすには、しっかりと定められたルールがある方が良い。(参照:何故いい歌詞は皆、しっかりとルールを決めて創作されるのか?)
書くのがあまりにも難しいというのであれば相談に乗りますし、「こういう事を書いたらいいですよ」というアドバイスをする事も出来るが、それは最終手段ですね。かえって悪化しそうですし。
来る者拒まず、去る者追わず、邪魔する者は容赦せず。なので自由に書いて下さいな。今の所、唯一警戒していて事前に禁止事項として掲げておきたいのは「多数派による専制」のみですね。その場合は容赦しません。
哲学者スチュアート・ミルはその著書「自由論」にて、「多数派による専制を警戒せよ」と述べた。
「自治」と書くと、まるで自らが自らを統治するかに見えるが、実際にはそうではない。自治とは自分が自分以外の誰か、全体を占める多数派によって統治される事を意味する。
では多数派とは何か? 多数派とは、最もアクティブで最も声が大きく、自分たちは多数派であると「認めさせる事に成功した」人々を言う。それゆえ多数派と個人の利益は必ずしも一致するとは限らない。それ故多数派と認めさせる事が出来た人々は、人々の一部を抑圧したいと願う事が多々ある。その様な多数派の専制は警戒すべき。
何故こんな話をしたかって? それは俺がコメントアートの世界において、かつて多数派の専制により、とある界隈が壊滅的に蹂躙された歴史を知っているからです。
和気藹々で、皆楽しく、細々と活動していた小さな小さな村。そこに突如多数派を名乗る蛮族の群れが集団で押し寄せて来て、「コメントアートとはこうあるべきだッッッ!!」「その技術は我々以外が使う事を許可しない!!」と蛮族らしく喚きたてながら、極めて暴力的な介入を行い、破壊の限りを尽くして我々の村を焼け野原にして去って行った。集いの場所を破壊されて村人たちは散り散りよ。
あなた達はコメ職人のくせして、随分と簡単にコメ職人を殺すのですね。コメ職人なんてのは、ほっといても虫の様に自然発生して、いくらでも生まれてくるとでも考えているのですか。こっちは、たった一人の同胞を生み出すだけで精一杯だというのに。
閑話休題さてさてさて。
そんな訳で「歴史カテゴリにはこういう記事を書かなくてはいけない!」「こんな記事は歴史カテゴリとして認めない!」みたいな縛りは特に無いです。むしろそういう動きが出始めたら要警戒信号。
あなたが歩んできた足跡、もしくはあなたが見て来た誰かの足跡を自由に書いてみて下さい。それが歴史であり、これからの未来を築く土台となります。歴史を動かした一大事件から、クッソ下らない個人の体験談まで幅広く受け入れますよ。
最終的にどこを目指しているのか、未だに定まっていない暗中模索のカテゴリですが、ゴールが見えないながらも一緒に歩んでくれる同志を、幅広く募集しています。
それでは、次回の記事までごきげんよう。