さあ、コメントの歴史のお時間です。昔を知っているオッサンが、ナウなヤング達の知らない世界へとご案内しましょう。
とは言っても、動画をペタリと貼るだけなら1分以内に全てが完結する簡単なお仕事だ。しかしその場合「へ~、ふ~ん。昔はこんなコメントアートがあったんだ~」という塩い反応で終わり。ナウいヤングにバカウケするには程遠い。
当時を生きていた人間が、どれ程の衝撃を受けて、どの様に歴史が変わり始めたのか、その10分の1でもいいから伝えて置きたい。残しておきたい。特に今回取り上げる「panda440さん」は、多分知らない人の方が多いだろうから。
コメ職人の事なら相当知っているぜと自負している人でも、「え? 誰?」となっていると思う。これは仕方がない事である。HDAさんやoztoさんの様に、当時から最前線で活躍していて今なおその存在を認知されている「生きている伝説」や「歩く歴史」と違って、panda440さんはコメ職人独自のネットワーク誕生以前に引退していった職人だ(この独自のネットワークが誕生して発展する経緯はまた別の歴史のお話)。
ここで俺が書き残さなかったら、彼(彼女?)は歴史の闇へと葬り去られる。
コメント職人はいつ死ぬと思う?
NG共有で多くの人に見られなくなった時? 違う。
投下した動画が全て削除され、跡地すら残らなくなった時? 違う。
アイディアも創作意欲も尽き果てて、何も生み出せなくなった時? 違う!!
・・・人に、
・・・・・・忘れられた時さ・・・・・・・!!!
だからこそ残したい。英雄達の生きていた証を。
んで、今回紹介したい動画がこちら。
ただしこちらは凄く残念な事に、現在正常に視聴できる環境が無い。
うp主が作ったキャプチャ版が以下の動画です。
これが1分で終わる簡単なお仕事。ただしここから先が1分では終わらない。これがどの様な歴史的意義を持っているのかをこれから語っていきましょう。ただしそこに至るまで、前提となる知識から書いていかねばならないので、少々回り道をします。
朝兄貴という古の習慣
コメントの歴史を理解するには、ニコニコの文化を知る必要があり、当時のニコニコを知るにはニコニコのランキング文化についての理解が欠かせない。なのでニコニコのランキング文化について事細かに説明・・・・・・・しようとして記事を書いていたら、書いても書いても終わりが見えない底なし沼に陥ったので、ごっそりカットしました。本編を書く前に力尽きてどうする。
でもランキング文化を理解していないと、ランキングバグ騒動で生まれたシャイニングスパイラルうんこの歴史等々を理解できない。なので必要に迫られたら書く事にします。組曲系CA製作者なら、誰もが知る七色のニコニコ動画に採用されているシャイニングスパイラルうんこ。これって相当に異質な選曲ですよ。アニメやゲームなどサブカルチャー全盛のニコニコにおいて、メインカルチャーの楽曲がニコニコで大流行したのですから。これを理解するには、ランキング文化の理解がマジで不可欠。
んで、今回紹介する動画を理解するのに必要なランキングの知識は、かつてのニコニコにあった朝兄貴という風習。
デイリーランキング1位を取るには、大体マイリス2000とか3000くらい必要だ。しかし、瞬間的に1位になるだけだったら、そこまで必要ない。デイリーランキングは、毎日朝5時にリセットされて0からスタート。なので朝6時の時点でマイリスが100とか200もあったら、2位をぶっちぎりで引き離して1位だ。ほんのちょっとの労力で、楽々1位を取れる。
ランキング工作ってのは、普通はバレないようにこっそりとやるものです。しかし兄貴担当の工作員は、自身が工作している事を一切包み隠さず、誰が見ても工作だと解る清々しさ。明らかに「こんなの誰もマイリスしないだろ」という動画を1位に押し上げている訳だし(レスリングシリーズは、元々嫌がらせ目的でランキングに上げられていた。それがいつの間にかコアなファンがついて長年愛されるシリーズになったのは、コメントとはまた別の歴史のお話)。
そんな訳で朝にランキングを開くと、工作員によるマイリス工作で大体いつも兄貴のサムネが上位に君臨していた。「変なサムネ上げんなwwww」とツッコミつつも、そのままクリックして今日の兄貴動画を見てしまうのが、超ヘビーユーザーなニコ厨の一般的な生態。それが朝兄貴と呼ばれる風習です。
(参照:ニコニコ大百科 朝兄貴)
朝に兄貴動画がランキングに乗っているのは、ニコ厨にとっては昼下がりのコーヒーブレイクと何ら変わらない日常の風景なのです。むしろ、兄貴動画が一つもなかったら「兄貴はどこだ!?」のコメントが付く事すらしばしば。
参照動画
朝兄貴は何で朝だけなのかというと、昼になる頃には見る影もなく最下層まで落ちているから。殆ど誰もマイリスしないし、工作員ですら朝盛大にマイリスしてランキングに載せたら終わり。他の工作員の様に、デイリー1位になるまで執着する事もない潔さ。
ウマを知っている人なら、ツインターボの様な超大逃げ馬をイメージすれば良く解ります。スタートしたら、まるで100mレースの如き全力疾走。誰も追いつけないリードで引き離し「このまま行ったら1位確実じゃね?」と一瞬思わせるが、勿論そんな事はなくスタミナ切れによる逆噴射でお終い。兄貴工作員の潔さは、ツインターボの潔さに通じる物がある。
そんな訳で、視聴者のマイリス投票による「本来の」ランキングを邪魔する事がない。兄貴動画がデイリーランキング1位を取った事は、多分一度も無かったはずです。
しかし、この動画は逆噴射をしなかった。
落ちるどころか通常の視聴者の支持を集め続け、デイリーランキング1位を取得。レスリングシリーズ史に残る偉業であると同時に、コメント史にも残る偉業を同時に達成。投稿者コメントによるコメント動画が、多くの人に支持されるだけの底力をもっていると示した最初の動画。
その後、投稿者コメントで制作したコメント動画は爆発的に増えていく事になるが、次にランキング1位を取り衆目を集める機会を得るのは、3か月後にアップされるHDAさんの「キラッ☆」を待たねばならない(それもまた別の歴史のお話)。何気にHDAさんよりも早く成し遂げているのであるこの動画。
そんなHDAさんはこの動画を評して曰く、
「コメント動画というカテゴリが公式に切り開かれたと感じた」
参照:変人と廃人の巣窟 【コメントアート・スクリプトアート動画集】
もしもこの職人クエストが誕生していなかったら、後に続く投コメ動画も誕生していなかったと言っても過言では・・・・・・・・・いや、過言だな。無くても新たに誕生し続けていただろうが、しかしその場合、登場は少し遅れていたかもしれない。
何せこの職人クエストによって「前例」が出来た。この前例の存在はとても大きい。
「お、投コメ動画ってイケるじゃん!」
「あ、こういうのってアリなんだ」
みたいに、製作者の意識を変革する一助になっていた可能性がある。この意識の変革が行われないと、後に続く投コメ動画が歴史に登場する事は無かったかもしれないのです。それほど当時の職人文化ってのは、排他的かつ閉鎖的なものでしたから。次はここら辺について解説していきましょう。
匿名文化の根強い初期コメント文化
ニコニコ初期である2007年に投稿者コメントが実装された。そして投コメを使うと、自動的に「投稿者コメント」のタグが付き、検索タグとして使えたのだ。
我々の様なコメント脳の人間がそんなタグを見つけてしまったら、当然、投コメをふんだんに使ったコメント動画を期待して検索するだろう。俺もこのタグの存在を知った時、凄いウキウキと期待に胸を弾ませながら検索しまくった。しかしその結果は毎回、串カツかと思って大喜びでかぶりついたら中身がタマネギフライだった子供の様な顔をする事になる。
投稿者コメントを検索しても出てくるのは、動画の誤字を投コメで修正してたりニコスクリプトを使っただけの動画ばかり。コメント脳の俺が期待する動画はまず出て来ない。
これだけコメ職人が居ながら、なんで誰も投コメで動画を作らないんだろうと疑問に思ったものです。多分なのだが、当時投コメ動画が殆ど無かった理由は、当時コメ職人のブログが殆ど無かった理由とほぼ同じだと推測している。
今のナウいヤング達は、こうしてCAのブログ書いたり、自作品の投コメを公開するのはごく当たり前の事だと思って居るはず。そういうのを見ると、戦争映画のプロローグかエピロードに出てくる老人の気持ちになりますよ。平和な生活を享受している若者達を見て「良かった・・・・・・。あの時のワシらの戦争と死は無駄じゃなかったんだ・・・」と。天国で見てるか、祖国の礎となって散っていった戦友達よ。
昔は全然当たり前じゃなかったんです。oztoさんの記念すべき一番最初の記事に、その事が示されています。
参照:気ままにニコライフ(手探り・・・)
当時ブログを始めるには、しっかりと覚悟を決めて「あえて」挑戦する必要があった訳ですよ。「大体理由は想像できますけど・・・」と書かれている通り、もうナウなヤングには戻れないオッサン達なら理由は大体想像できますね。自分の名前出して個人ブログをやるなんて当時はありえない、と。
初期のコメント文化、というかニコニコ文化は2chから継承された匿名文化が極めて強く根付いた文化なのです。なので、固定ハンドルネーム名乗って自己主張をしよう物なら、総スカンを喰らって他の職人からボロックソに陰口を叩かれまくる。
だから、「歌詞作りましたby○○職人」とか名乗ったり、「投下したので見て下さい」と記事で公開したり、自作の投コメ動画で表舞台に立とう物なら、大ヒンシュクを買う訳ですよ。初期コメ職人文化は自己主張を徹底的に嫌う。コメ職人ってのは動画の裏方であり黒子だ。一切自己主張をせず、動画の一部かと思わせる視聴者に気付かれないようなコメを、黙って投下して黙って立ち去れと。それが職人のあるべき姿である、という思想が主流も主流。
なので、当時組曲の職人ってのは(悪い意味で)別格扱いされていました。
コメントアートの3大ジャンルである歌詞系・絵系・装飾系。これは当時もあったジャンルであるが、当時はこれに加えて組曲系なる別枠も用意されていた。「通常の」絵系と一緒にするんじゃねぇ、と。
組曲の職人ってのは「 \○○周年祭り開催! 盛り上がっていこう!/ 」みたいに、キャラクターに自己の主張をさせる人々だらけだし、動画のコメント欄をチャット会場にして馴れ合いを始めるし、画面を覆い尽くす大量のコメントで、他の人のコメントを流す事を当然の事と思って居る。
なので当時多数派だった派閥の職人側から言えば、
「あんなのはとてもCAとは呼べねぇ! 一緒にすんな!」とか、
「隔離病棟から一生出てくんな」とか、
そういう扱いになるのも当然っちゃ当然だった訳です。どうでもいい話ですが、当時の組曲は隔離病棟と呼ばれていました。
歴史を動かすのに4分もいらない
さてさてさて。
ここでちょっと考えて欲しいのですよ。そんな「空気」が場を支配していた時代において、「ちょっとCAブログでも書いてみようか」とか「投コメ動画うpして表舞台に立とうか」という発想になりますか? お手軽とは程遠い、結構な勇気がいる行動になってきますよ。一体どんな陰口叩かれるか解った物ではない。
例え職人界隈からボロックソに言われようが、視聴者から絶大な支持と人気を得られるってのならまだ挑戦する気にもなるが、そんな前例はどこにも無い。
つ スッ
前例が出来た!!!
コメント動画というジャンルが切り開かれた瞬間だ。わずか3分ちょっとの動画をアップした事により、この時歴史は動いた。歴史を動かすのに、4分もいらない。
当時多数派を占めていた閉鎖的かつ排他的な職人派閥が、この動画をどのように評価したかは想像に難くない。閉鎖的かつ排他的なコミュってのは、言うなれば横綱審議委員会みたいなものです。
「確かに強いが、横綱としての品格ガー・・・・・」
「あんな粗野な振る舞いをする人間はとても横綱には・・・・・・」
とまあ、あーだこーだイチャモンを付けるのが仕事みたいなもんだ。そんな感じで、彼らが「職人クエスト」を視聴しようものなら、
「投コメなんか使っているようでは、とても職人とは呼べねぇな」とか、
「つーか、自分で自分の事を職人とか呼ぶのって、マジでキモイ」とか、
そんな感じで「職人認定」はしなかったであろう事は確かだ。まあ、一理あるからこれはこれで仕方がない。
「投コメ動画うp主=コメ職人」としてしまうと、色々な厄介事が発生してくる。コメントに詳しくない人が@逆や@秒数指定のコメを見ると、なんかとてつもなく凄い超絶技術に見えてしまう。それを基準にして、通常コメでやっている職人に「これが職人? ○○の動画のうp主の方がもっと凄いコメントしていたよ」と言われても、そんなの投コメでしか出来ないですから。
正しくは「投コメ動画うp主≠コメ職人」であり、「職人スゲー!」ではなく「投コメスゲー!!」に視聴者の認識が変わるまでは、もう少し歴史を重ねないといけないので、これはまた別の歴史のお話。
後に続く土台を作った「最初の人」
話を戻そう。
職人クエストの動画ってのは、そんな空気をブチ破って登場してきたのです。なのでその衝撃は実に歪みねぇ代物でした。俺の文章力でどれ程その衝撃を伝えられたかは解りませんが、足掻けるだけは足掻きましたからね。後に続く投コメ動画の先駆者となった、記念碑的動画。
実際この後、爆発的な勢いで投コメによるコメント動画が誕生し続ける事になります。oztoさんのMCFPシリーズ(装飾)、takkaano君の投コメシリーズ(歌詞)、HDAさんの一連の動画群(絵)と、3大ジャンル揃ってそれぞれのシリーズが同年内に開始される事になる。更に年末から翌年になる頃には、スクリプトアートという今まで無かった未知のエリアが、えんがわ01さんによって新たに開拓され始めるのです。
それら一連の動画群もチラホラランキングに乗り、多くの人に見られる事によって、新たなコメント製作者を生み出す事となる。そしてその新たな製作者による動画を見た事によって、また新たなるコメント製作者が・・・・・・という好循環に突入する! ホコリが満載の火薬庫でタバコを吸うが如く、爆発的な燃焼が一気に広がって止まらない。ヒロスさんの言う「脱動画化」時代の幕開けだ。この脱動画化時代の歴史を書いたら、とんでもない密度と作業量になるのは間違いない。
そしてこれら爆発的な広がりを見せるコメント動画の、土台を作り、道を切り開いたのが職人クエストの動画なのです。当時の空気をブチ破り、許可を与える事に成功した。
「ああ、こういう動画を作ってもいいんだぁ」
と。なんかこういうのは作っちゃ駄目みたいな漠然とした「空気」が漂っていたが、そんなものは自分で勝手に想像していただけの代物であると、気づかせた。作っていいんだよ! 「自分の」作品を作って表舞台に立ってもいいんだよ! と。しかも視聴者も見たがっているし、作って欲しがっているのだと示してくれた。それ以前にあった投コメ動画ってのは、凄いマイナーな動画ばかりで「コメント関係者しか見ていないのかな?」と思わせる様な動画ばかりだったものですから。
正常な視聴環境が確保されない現代、人々の話題に上がる事はまずなくなったが、それでもなお書き残しておくべき歴史的意義がある。そう確信したからこそ、今回の記事を書きました。投コメ動画の歴史を動かした「最初の人」ですから。
おまけ
割とどうでもいいけど、書いておきたいこぼれ話を少々。
上の方でoztoさんが装飾、HDAさんが絵と自分で書いた後にちょっと笑ってしまいました。もしも当時のコメント関係者に「10年後、oztoさんは絵をやっていて、HDAさんは装飾やっているよ」と言ったら、一体何人の人が信じてくれるやら。装飾と絵の代名詞的存在だったはずなのに。
なんというか、10年前と今とでえっちださんとワイの作ってるCAジャンルがお互い逆になってるのちょっと面白いw
— ozto (@ozto_nokmo) April 24, 2019
映 画 化 決 定
全米が投下した。 pic.twitter.com/ziNYLtc880
— メモ帳 (@philo_77) April 24, 2019
歴史がこの先どの様な道を辿るかなんて、誰にも解りやしないのです。
もうひとつ。記事にするにあたって、当時はどんな反応だったのか詳しく理解する為に過去ログで初期コメントを眺めていたのですよ。そしたら通常コメによるCAが投下されていました。
現代でも問題なく見れるflashプレイヤー時代のCA! 16行つえぇぇぇぇ!
組曲○○周年まとめ動画でよく見かける作品ですね。見習い竜王ピポさんって、この時代から活躍してたのか。ピポさんに対しては、なんとなくヤングなイメージを抱いていたのですが、結構なオッサンだったんですねニチャァ(親近感)。隔離病棟から脱走しているが、視聴者に受け入れられているなら問題ないとでしょと考える俺。こぼれ話もこれにて終了。
そんなこんなで、コメントの歴史第一弾はこれにて終わります。
それでは、次回の記事までごきげんよう。