コメントにおける制作と互換の経済学

コメントにおける制作と互換の経済学

 

 

今回の記事はコメント制作についてまわる互換の問題を、経済学的に考えてみようという記事です。

 

経済学というと世の中のお金をどうこうする学問かと思われがちですが、そうではないですよ。経済学というのは凄い乱暴にまとめると、「限りある資源をどのように分配すれば、人は幸せになれるか」という事をあれやこれやと考える学問です。どれくらいの費用を支払えば、どれくらいの効果が返ってくるのかを考える。誰しもが毎日考えている事でね。その考える為の便利なツールが経済学にはいっぱい用意されています。このツールを使えば、普段「なんとなく」やっていた事をもっと合理的に考えられるようになるので、学ぶ意義はあると思うのですよ。

 

普段俺が互換の時に考えているのは経済合理的とは無縁のドンブリ勘定ではあるのだが、今年コメント動画を作るに当たって、製作中と制作後にあれやこれやと考える必要に迫られた。そん時のあれやこれやを記事にしてみようというのが今回の記事内容。それでは前フリはこんな所にして、早速本編に入っていきましょか。

 

 

互換とは何か?

 

そもそも互換とは何かという所から解説してきましょか。コメントの世界に足を突っ込んだばかりの時は、全く知りもしないし意識もしない事ですからね。所がどっこい。PCを買い換える時期が来る程長いスパンでやり続けたり、CAについて自分で調べて勉強しだす頃になると解る事がある。コメントって、見る環境によって全然違うじゃん! という事が。

 

俺も知識としては当然知ってはいたのだが、頭で知るのと実際に自分の目で見るのとでは大違いでしたね。俺のPCではキレイに見えているんだから別にいいじゃん、と。しかしPCがぶっ壊れて、修理中に別のPCで自分の作品を見た時の衝撃は凄かったですね。「ぐぉるぉなおぉう#$%&”(声にならない形容しがたき絶叫)」

 

ニコニコのコメントは、OSやブラウザや見る端末やらプレイヤーやらによって全然表示が違うのです。自分の環境では意図通りキレイに表示されていても、別の環境では意図とはかけ離れた意味不明な文字列になっていたりする。CA検証の歴史は、新登場した環境でどの様に文字が表示されるかの検証の歴史でもある。

 

別の環境でも、自分が意図した通りにCAが表示されるように作り直す事を、CA用語で「互換作業」といいます。何も考えずにドンブリ勘定で作ると、大抵は互換される事なく、自分の環境専用のCAになりますからね。互換性が無い作品が出来上がる。

 

この互換作業もCA技術の一つであり、技術評価の対象であり、互換作業をバリバリにこなせるコメ職人は一目おかれる存在だ。そもそも不特定多数の人が見る動画にコメントを投下するのだから、不特定多数の人が見れる様に作れなかったら評価の対象にならない。CA投下しても思っていたようなリアクションが返ってこないって時は、単純にその視聴者には意味不明な文字列しか見えていないだけって可能性もありますよ。CA始めたばかりの頃は実感が伴わないでしょうが、互換というのは結構重要な技術なんですよ。

 

 

だがしかし―――

 

 

「互換は重要な技術だ」 → 「だからしっかり互換されたCAを作ろう!」と一足飛びに結論に飛びつくのはちょっと待って欲しい。言っておきますけど、この「しっかり互換されたCAを作ろう!」というのはとても強力な呪いの言葉ですからね。自分にかければ自分が呪われ、他人にかければ他人と自分の2人が呪われ、まずロクな事が起きない。一度装備するとなかなか外せない呪いのアイテムなので、使い方は慎重に考えましょう。

 

どれくらい強力な呪いなのかというと、もしこの呪いの言葉を徹底した場合、中間層がゴッソリ抜け落ちた完全二極化の世界がやってきます。全ての互換をパーフェクトにこなしつつ自分のやりたい事を貫く廃人層と、「互換? 俺は自分のやりたい事をやりたい様にやるだけだぜヒャッハー!!」という世紀末モヒカン層しか生き残れない。廃人になる程自分の人生をコメントに捧げる事は出来ないが、だからと言ってひたすらにエゴを貫くモヒカンにもなれない中間層がゴッソリ居なくなる。

 

実際、その中間層がゴッソリ抜け落ちたのがヒロス氏がこちらの記事で「CA暗黒期」と称する時期の出来事です。

対chrome、4年間激闘の記録

 

上の記事は、chromeに殺されるどころか逆にchromeを殺そうとする廃人達の戦いの記録ですね。

 

 

記事の内容はサッパリ解らんが、知識も技術もとんでもなく高い水準を要求されているという事は解る。とてもじゃないが、超廃人層以外が参戦できる場ではないですね。「CAってのは、そこまでしなくちゃいけないのかよ・・・・」と。もはやお手軽な趣味として楽しめる領域ではない。ありえないコストを要求される様になるのだから、コストを支払える富裕層とコストを踏み倒す底辺層のみが生き残れる二極化の世界が訪れる。

 

 

互換が必要になる時

 

CA暗黒期という極端な例を持ち出しましたが、ヒロス氏自身が「歴史の1ページ」と述べている様に、それは最早過去の出来事です。現在はHTML5の登場により、ありえない程低いコストで参戦できる素晴らしい時代になっています。このHTML5プレイヤーを作った技術者には、1日1万回の感謝の正拳突きを捧げてもいいと思っているくらいです。せいやっ! せいやっ!! せいやっ!!!

 

このHTML5の互換性はかなり素晴らしく、ドンブリ勘定で作っても大体意図通りに表示してくれる。中画面で見ようが大画面で見ようがフルスクリーンで見ようが同じように表示される事に、感動した覚えがありますね。自分の作品をフルスクリーンで見た時の美しさに惚れ惚れした物です(自画自賛)。メンドクサイ互換作業はプレイヤーに任せても、そこそこ信頼して大丈夫なくらいには素晴らしいプレイヤーです。今は互換作業にそこまで神経質にならなくても大丈夫。

 

そもそも全てのCAに互換作業が必要という事はないですよ。互換作業なんか一切しなくても、あらゆる環境でほぼ同様に表示される互換性最強のCAがある。例えば「shita big red」とか。

 

 

 

 

検証した事はないですけど、あらゆるブラウザあらゆるOSあらゆる端末どころか、flashプレイヤーでも多分同じ様に表示されている事でしょう。俺自身、互換についてはあまり詳しく無いのですが、互換について一つ言える事は「シンプルな構造ほど強い」という事ですね。逆に、複雑で緻密な構造になればなる程互換作業の重要性は増していきます。ピクセル単位の精密な調整をしているのであれば、1ピクセルずれただけで致命的な致命傷を負うことになる。複数のフォントを混ぜたり、数種類の改行固定を混ぜたり、特殊な記号や特殊なコマンドを使う様な複雑な作品になればなる程、互換の必要性が出てくる。

 

そもそも互換作業が必要なのかどうかは、自分の作品を他の環境で見てみれば一発で解ります。もしもあなたが、どんなパソコンでもどんなスマホでも同じ様に自分の作品を見れたというのであれば、ここで今回の記事のお話は終了だ。それでは次回の記事までごきげんよう。

 

俺自身も、互換に関しては「でぇじょうぶだ! 無敵のHTML5先輩が何とかしてくれっから!」とドラゴンボールのシェンロン並に頼り切っていたのでそこまで自分で考える事は無かったですね。ですが環境によって別の表示をしている様を見ちゃった以上は仕方が無い。互換についてどの様に考えていけばいいのかを考えていきましょう。

 

なにせこれは「こういう時コメ職人はどうするべきなのか?」ではなく、「こういう時『私は』どうしたいのか?」という個人に関する問題なので、各々が個人で考えないといけない問題なのです。何をするべきなのかは、何をしたいかによって変わる物ですから。

 

 

統治を生み出す2つの費用

 

もしも作ったCA作品を誰にも見せず、ずっとコマテに引き篭もったままでいるのであれば互換の問題は一切考える必要がない。自分一人しか見ないのだから、自分一人の環境で見る事さえ出来ればそれで万事オーケーだ。しかし、不特定多数が見る動画に投下して、色々な視聴者の環境に干渉するのであれば、考え無しで突っ込むとNG共有スコア等の負債が膨れ上がってニッチもサッチも行かなくなる。「どの程度」まで考えるべきかを考えよう。

 

これを考えるに当たってとても役立つであろうツールが、経済学における統治に関する費用だ。不特定多数の人間をまとめて統治を生み出すには2種類の費用が要る。「意思決定費用」と「外部費用」の2つだ。この2つの区別を指摘したのは、ノーベル賞を貰った経済学者のジェームズ・ブキャナンと、ノーベル賞を貰ってもおかしくない経済学者のゴードン・タロックの2人。専門用語が出まくっているがダイジョブダイジョブ。具体例を挙げて説明すれば、「ああ、あの事ね」と誰もが実感できる日常にありふれた概念ですから。ここからこの2つの費用について詳しく解説していきましょう。

 

 

意思決定費用

 

意思決定費用というのは、読んで字の如く「意思決定を行うのに必要な費用」の事です。なんの捻りもなくそのまんまですね。何かを決定するのはタダではないのです。それなりの費用がかかる物なんですよ。凄い莫大なコストを支払ってようやく下せる決定もあれば、コンマ数秒で即決できるリーズナブルな決定まで色々ある。そしてこの意思決定費用というのは、意思決定に関わる人が多くなればなる程、際限なく膨れ上がっていきます。

 

例えばですね。超ワンマン社長が経営する会社の会議ってのは、多分10分以内に終ると思いますよ。社長が重役達を集めて、「今度ウチの会社でこれをやる」と一言伝えてそれで会議は終了だ。誰も反論しないし反論できない。意思決定を下すのはワンマン社長ただ一人。残りの人間はそれを唯々諾々と了承する。所が民主的な会社の場合。何かの了承を得るには書類に各役職のハンコが計5個必要になるような会社だとしたら、こうはいかない。一度会議を開こうものなら、あーでもないこーでもないと3時間4時間会議が繰り返される。決定するのに過半数や大多数の同意が必要だとしたら、簡単に決定は下らないのですよ。

 

あるいは旅行に行く時。一人旅に行くのであれば、意思決定費用は格段に抑えられる。「そうだ、京都に行こう」と思った次の瞬間にはもう京都行きのプランを立てる事が出来る。所が、大多数の人間が旅行に行くとなったらこうはいかないですよ。例えば、全国各地から学生が集まる大学サークルの卒業旅行を考えてみましょう。誰かが「卒業旅行で沖縄に行こうぜ!」と言い出したとしてもスムーズには進まない。「おいおい、○○君は沖縄出身だぜ。旅行というよりも帰省じゃないか」「じゃあ、北海道に行こうぜ」「おいおい、○○ちゃん達は先月北海道旅行に行ったばかりじゃないか。他の所にしろよ」と。場所だけではなく日時でも揉める事になるでしょう。「その日は内定先の研修があるから無理」とか「その日はじいちゃんの3回忌があるんだ」とか。

 

「みんな」が納得する様なプランを立てようとしたら、意思決定の費用は莫大に膨れ上がる。最終的には最早決断を下すことができないレベルにまでに膨れ上がって、「旅行は辞め! いつもの飲み屋で2時間のお別れ会を開こう!」という格安の意思決定費用で決定できる所に落ち着く。独裁制の組織であれば一人が決定を下すだけで行動に移れるのだが、民主制の組織になると皆が納得する決定を下すまでには多大なコストがかかるのです。

 

外部費用

 

これだけの説明だと「独裁制最高や! 民主制はクソや!」になってしまいそうだがちょっと待って欲しい。もう一つの費用である「外部費用」についてだ。この外部費用と意思決定費用はトレードオフの関係になっており、片方を安く抑えようとすればする程、もう片方の費用が膨れ上がるのです。あちらを立てればこちらが立たず。

 

この外部費用というのは何かというと、外部の不満を抑えるのに支払う必要がある費用の事です。やっぱり何の捻りもなくそのまんまですね。ではこの「外部」というのは何に対しての外部なのかというと、意思決定を下していない人達の事です。意思決定を下していないのに、その意思決定に従わなくてはいけないのだから、当然不満は溜まりますね。自分の生活を見回してみれば、そういう決定っていくらでも出てくる事に気付くはずです。数人のお偉いさんたちが会議室で勝手に決めた事になぜか従わなくてはいけない。俺はタバコの値上がりに対して一度として「値上がりに賛成します!」と決定した覚えがないのに、何故か大人しく値上がりに従わなくてはいけない訳ですよ。

 

例えばですね。ワンマン社長が、「業績が傾いているから、全社員一丸となってこれから毎日2時間の残業をする事」と決定したら、この決定は実にスムーズに施行されます。意思決定費用は限りなくゼロに近い。でも実際にそんな事になったら、社員の不満を抑える為の外部費用は格段に跳ね上がりますね。歴史を見ても、独裁制の国家というのは不満を爆発させた国民による反旗によって終ると決まっている。不満を抑える為の外部費用がインフレを起こすのだから、いずれ支払えなくなって倒産するのです。

 

それに対して、決定を下すのに「みんな」の同意が必要な民主制なら、「みんな」が納得するので不満は発生しない。外部費用は抑えられる。もし過半数の同意が必要ならば過半数の人間は不満を抱える事は無いし、全員一致が条件であれば、全員が満足するので外部費用は限りなくゼロに近い。「やっぱり民主制は最高やな! 独裁制はクソや!」と手のひら返しが来るかもしれませんが、民主制の組織における意思決定はクソ費用がかかるという事をお忘れなく。1億人の国民全員の同意が必要な決定を下そうとしたら、費用が高すぎて永遠に何も決定できずに終ります。あちらを立てればこちらは立たないのです。

 

 

コメント職人の経済学―エゴと公共のシーソーゲーム―

 

意思決定費用と外部費用。特に抑えておいて欲しいポイントは、片方を安くすれば片方が高騰するというトレードオフの関係である事ですね。ここから色んな物が見えてくるんですよ。

 

例えばですね。コメント投下に当たって「人様の動画に投下するのだから、動画の邪魔をしてはいけないし、視聴者に不快な思いをさせてはいけない」と考える一派があります。これはどの様な考えに基づいた判断なのかというと、外部費用の発生を極限まで抑えよう、という考えから生み出される物です。コメ職人のせいで、動画の視聴者に不満が発生するケースがあるのですよ。「俺は動画を見に来たんであって、コメ職人のこんな素敵なCAを見に来たんじゃねーよ!」とか。まあ、こんなツンデレ風に罵ってくれる視聴者は一度も見た事がないが(そもそも大多数の視聴者は『CA』なんて専門用語を使わない)大体こんな感じで視聴者に不満が発生する。

 

そういう不満が発生しないように、「みんな」が観れるCAを作ろうとするし「みんな」が楽しめる様なCAを作ろうとする。因みにこの思想の行き着く果ては緩やかな自殺ですね。「自分で殺す」と「自分を殺す」の2つの意味が含まれた自殺だ。

 

外部費用を抑えようとすると、意思決定費用がハネ上がるんですよ。つまり、「よし、これを作ろう!!」という意思決定を下すのがとても難しくなるのです。いざ作ろうとした時に、「果たしてこれはmacでも見れるのか? スマホでも見れるのか? wiiやプレステからも見れるか?」とか「これは『みんな』が喜ぶ作品なのか? 不快に思う人達が居ないのか?」とか考え出したら、ホイホイ決断を下す事はできなくなる。

 

「みんな」が不快に思わない事をしようとしたら、みんなが「どうでもいい」と思う様な事しか出来なくなりますから。行き着く果ては「コメントしない事が一番のコメントアートだ」という結論に辿り着いて制作をしなくなる。どんなに頑張って工夫した所で、嫌がる人は出てくるしまともに視聴できない環境の人は現れるのです。どんなにベテランになって上手いCAを作ろうがお構いなしにNG共有スコアは上昇する。

 

「みんなが観れてみんなが喜ぶ作品を作ろう」というのは、意思決定費用を高騰させて行動力を鈍らせる呪いの言葉なんですよ。この呪いを自分にかけても他人にかけても、一部の変態かバカを除いて殆どの人はコメ職人としては死ぬ。視聴環境が限られているなら作れますよ。このOSとこのOSの二つだけに対応させたCAを作ればいい! という時代なら何とかできる事でしょう。しかし今やあらゆる環境でニコニコが見れる時代です。全てに対応したCAを作るとしたらかなり限られた事しか出来なくなりますね。それこそ「shita big red」とか。

 

あるいは、視聴者層が限定されているなら作れます。この動画は鉄道オタクしか見ないとか、うp主の信者しか見ないとか、ホモしか見ないとか、「みんな」が同じ事に喜び感じ、同じ価値観を共有した強固なコミュニティだとしたら「みんな」を喜ばせる事は簡単です。一人が喜ぶ物を作ればいいだけの話なのですから。どちらにせよ、極めて限定的な状況であり、不特定多数の人間が集まる場所では難しい。

 

逆に、行動力が溢れていた時期というのを多くのコメ職人が体験した事があると思うのですよ。特に始めたばかりの頃。もう思いついたら即作る決断を下し、作っては貼り、作っては貼りを繰り返していた時期を。何故そこまで素早く意思決定を行う事が出来たのかというと、外部費用の発生をガン無視して意思決定費用を抑えていたからですね

 

「互換? 何それ? 俺はとにかく、自分の作りたい物を作りまくるだけだぜヒャッハー」的な感じで。「作ろう」と思った次の瞬間には「もう作っている」。他の人からどう見られようとも構わない、どう言われようとも構わない。「みんな」から絶賛されなくてもいい。たった一人からでも「職人ありがとー」と言われればお釣りが来る。多分この時期がコメ職人として一番楽しい時期だと思う。余計な事に自分の決定を縛られていないこの時期が。

 

しかし完全な初心者を脱して中級者辺りになってくると、行動力は鈍ってくる。環境によって表示が違うという互換の問題を知ってしまったり、まだ誰もやった事の無い事(コメントの検証がなされていない事)にチャレンジしたいとか思い始めたら即断即決は難しい。成長して考えられる事が増えると、考えるべき事や考えなきゃいけない事が増えるのですよ。ひたすら自分の事だけ考えていればいい時期と違って、関係性が増えてくるほどにエゴを貫くのは難しくなっていく。関わる人達をどのように『統治』していくか、2つの費用のシーソゲームが始まる。

 

歌詞イベを開いたり、様々な企画をしているmonmon氏。monmon氏が企画倒れになる事なくしっかり企画を実現して運営する事が出来るのは、一人で決断を行っているからですね。勿論、monmon氏は「みんな」の声をしっかり聞いています。イベントの改善点が無いかを直接聞きに言っている姿を見た事もありますし。「みんな」の声は聞く。声は聞くが、意思決定をする時は一人です。

 

monmon氏がイベントの発表をする時は結果のみの発表ですからね。「決定する!」という過程は全て吹き飛びッッ! 「決定した!!」という結果のみが残るッッッッ! 毎回毎回「え? こんな企画の準備してたの?」という青天の霹靂ばかりですから。

 

一人で決断を下し、意思決定費用を抑えているのですから、当然意思決定に関わっていない人達による外部費用が発生します。同意していない不利なルールでも、参加して統治下に入る以上は従わなくてはいけない。「ここのルールはちょっときついなぁ」とか「この評価方法だと俺が圧倒的に不利じゃん」とかの不満を抱えながら。以前俺が書いたこちらの記事は、俺のイベントに対する不満と改善点を述べた物になります。

王様は何故低評価になったのか? ―歌詞イベの構造的欠陥と対抗戦略―

 

やってみて初めて解る不満もあれば、やる前から解りきっている不満もある。もしmonmon氏が事前に「みんな」に相談して「みんな」でイベントのルールを決めて同意を得ていたとしたら、「みんな」が納得して「みんな」が満足するイベントになっていた事でしょう。外部費用はギリギリまで抑えられる。ただしそれは2年経っても3年経っても実現されないイベントです。「みんな」が納得する様な物を作ろうとしたら、いつまで経ってもゴーサインなんて出せませんから。人の心から不満が消え去る事はなし。

 

もしあなたが「俺のせいで他人がどんな不満を抱こうと知るもんか! 俺は俺のやりたい事をやる!」というエゴを貫く人間であれば、相当な行動力を持つことになります。外部費用がハネ上がるほど、意思決定費用は安く抑えられるのですから。外部費用に比例してNG共有スコアもハネ上がるかもしれませんが。

 

逆に「視聴者が不愉快に思わない事が大事。視聴者は動画を見に来たのであって俺のコメントを見に来たわけでは無い」というのであれば、行動力は抑制されますね。外部費用を安く抑えるほど、意思決定費用は高騰する。行動は慎重にならざるを得ない。実際にはこんな両極端の人間しか居ないわけではなく、この間には無限のグラデーションが存在しますけどね。

 

この手の話をすると、善悪の問題と捉えて「人様の動画を私物化して自己主張の場とする輩はけしからん!!」と糾弾する一派が出てくるが、それらの呪いの言葉を他人や自分にかけ続けるのはあまり良い未来をもたらさないと思いますよ。「水清ければ魚住まず」の諺どおり、清廉潔白無私無欲な崇高さを素晴らしいとする環境からは人が居なくなる。そりゃぁ、やりすぎてNG共有による一発出禁を喰らわない様に警告する事は大事でしょうが、まともにやってもNG共有は喰らうのだから、そこまで神経質にならなくてもいいと思うのだが。

 

引退していった人の中には、これらが理由で引退してった人も居ると思うし。つまり、他にやりたい事が出来たとかコメントに興味が無くなったとかではなく、外部費用を抑えて抑えて抑えまくろうとした結果、意思決定費用がインフレを起こして、最早どんな決定も出来なくなった人。皆を楽しませなくてはいけない、あの人の期待に応えなくてはいけない、誰もが見れる作品を作らなければいけない、NGされないようなCAを作らないといけない、と。やりたくてやりたくて仕方が無いのに意思決定が出来ない。引退する事無く長年やり続けている人達は、それなりに汚れた環境に住んでいます。

 

意思決定費用と外部費用。片方の発生を抑えようとすると、もう片方の費用はとても支払えないくらいに高騰を起こす。ではどちらにどれくらい支払えばいいのかというと、それは自分が何をやりたいのかによる、というのが先にも述べた今回の記事の内容です。

 

例えば、自分のやりたい事は「みんな」を楽しませる事だ、という根っからの芸人気質の人の場合。その場合は、高い意思決定費用を支払ってでも、外部費用を抑える必要がある。色々な環境でどの様に見えるか検証したり、場合によってはシンプルな構造に作り変えるよう妥協する必要も出てくる。「自分」のやりたい事を妥協してでも、「みんな」が楽しめなければ意味が無いのだから、それらは必要なコストだ。

 

逆に「みんな」なんかどうでもいい! 俺は「俺が」楽しめる物を作りたいし、「あの人」が楽しめる為に作るんだ、という人の場合。そりゃぁ、多額の外部費用を請求されても大人しく受け入れるしかない。その代わり、自分の為にやるというのであれば、自分の事だけ考えて作ればオーケーなので意思決定費用は格安に抑えれれます。

 

動画のうp主に捧げる為に作る、というのであれば、うp主の事だけ考えて作ればいい。ただしその場合は、捧げる相手のPC環境をしっかりチェックする事が必須。チェックをせずに作った場合、完全に独り善がりな捧げられてもリアクションに困る作品が出来る可能性がある。しかし、その捧げる相手の環境「だけ」を考慮すればいいのだから楽ではあります。その他の環境でグチャグチャになっていても一切気にする必要が無いのですから。

 

外部費用の発生を全力で抑えようとした場合の究極は、「コメントしない事が一番のコメントアートだ」という結論に辿り着く。それは最早コメ職人とは呼べない。そして同様に、意思決定費用を全力で抑えた究極系も、やはりコメ職人として認識する事は出来ないのですよ。「俺は俺の為『だけ』にコメントアートを作っている! 完全な自己満足の世界だ!」と豪語する人はコマテから絶対に出て来ないはずですからね。出てくる必要性が皆無なのですから。世に出て作品を公開する以上、少なからず他者に与える影響を考えざるを得ないし、それに伴い意思決定費用は増える。

 

自分はどちらの費用にどれくらい支払えばいいかを考える事は、自分は何の為にコメントするかを考える事であり、自分には何が出来るかを考える事でもあります。これは自分以外の誰もやってくれない。自分で考えなくてはいけないし、自分で哲学しなくてはいけない事です。さあ、あなたも一緒にコメント職人を哲学していきましょう!(めくるめく底無し沼への誘い)

 

動画の製作中に考えていた事

 

唐突ですが、今年のセカンドインパクトと同日、ヤシマ作戦発令と同時刻に、エヴァのコメント動画をうpしました。

 

 

そして削除されました(即オチ2コマ)。

 

ゲンドウポーズで「問題ない。全ては計画通りだ」と呟く程度には想定内の出来事ではあったのだが、それにしても短かったなぁ。まあそれでも、初登場してから15分経たずに死亡した渚カヲルの寿命よりは遥かに長かったですよ。で、この動画の製作中に何を考えていたのかというと、それはタイトルに現れています。

 

【PC限定】の文字に。

 

俺はスマホを持っていないからスマホから見るとどの様に表示されているのかは解らないのですが、こちらの・M・(まー)氏の記事で書かれているので、@秒数指定がPCと違うという事は知識としては知っていました。

【コメントアート】イベントは参加することに意味がある

 

小数点以下は反映されないが、整数ならばスマホでも同様に表示されると。ならば複数のコメントを組み合わせて工夫すれば、1.1秒とか1.01秒の表示にする事は可能。但し1秒未満の表示にするには2588を使わないと不可。コメント数と手間隙を沢山かければ、スマホに対応した投コメを作る事は可能。

 

しかしスマホから見る視聴者の事は全て切り捨てた。

 

もしもスマホから見た人達も満足する様な物を作ろうとしたら、ありえない程のコストを支払わなくてはいけなくなるからだ。

 

まずコメント数がかさむ。どうでもいい事にコメントを浪費していたら、使うべきところに使うはずのコメントが圧迫されてしまう。やりたい事を妥協せざるを得なくなって、ショボイ演出で我慢せざるを得ない箇所が増えてくる。俺は我慢出来ない。

 

脳内会議開始。

 

「おい! そんなコメントにしたら、スマホから見えなくなるぞ! 作り直せ!」

「うるせぇ! 俺が見るんだよ! いいからこのままで突っ走れ!」

 

脳内会議終了。独裁制の会議は一瞬で終る。

 

「お、これ良いんじゃね?」という面白いアイディアが思いついたとしても、いちいちスマホから見たらどうなるかを考えて足を止めていたら、一気にやる気が無くなりますわ。そもそもコメント制作というのは悉くメンドクサイ作業ではあるのだが、メンドクサイにも2種類ある。こうしたらカッコ良くなるんじゃないか、こうしたら面白くなるんじゃないかとアレコレ考えて手を動かす作業は「チクショウ、めんどくせぇなぁ」と口では文句を言いつつも顔は満面の笑みに包まれるメンドクササだ

 

それに対して互換作業のめんどくささというのは、ただひたすらにメンドクサイ。物凄いエネルギーを消耗する。しかも貴重なエネルギーを費やしたからといって、作品のクオリティが良くなる訳でもない。マイナスがゼロになるだけ。こんなどうでもいい事にエネルギーを消費してたら「よーし、今日はこれを作ろう♪」という意思決定をするエネルギーが無くなります。エネルギーが有り余っている若者と違って、おっさんのエネルギーというのは貴重な貴重な資源なんです!

 

スマホの視聴者層を切り捨てるというのは、時代の流れに逆行した行為です。具体的なデータは知らないが、今の殆どのネットユーザーはスマホからネットでアクセスしているとの事。パソコンを使った事が無い世代が現れる程だ。しかしスマホユーザーが喜ぶ物を作ろうとしたら、俺は作品を作れていなかった事でしょう。意思決定費用がデカ過ぎる。しかし俺は作りたいんだ! 作らずには居られないのがコメ職人という存在なのですから。

 

俺は作る事を優先したので、意思決定を妨げる様な外部費用を支払う事はガン無視しました。これが良いとか悪いとかの話ではなく、俺はそうしたいからそうしたというだけの話です。自分が何をするべきなのかは、自分が何をしたいかによって変わる。俺も、したい事が変われば全く別の行動を取るでしょうから。

 

ちゃぶ台返し:キャプチャという万能薬

 

ここまであれやこれやと書いてきて「さあ、考えていきましょう」と言ってきた訳ですが、こんな事を一切考える必要がなくなる解決策がある。それは作ったCAをキャプチャする事です。キャプチャしてしまえば、あらゆる環境で意図した設計通りに表示される。しかも仕様変更の影響も受けないから、半永久的に残し続ける事が可能。あーだこーだ難しく考える必要は一切なくなる。自分の環境で見れる様に制作すればいいだけの話。一体ここまで長々話してきた事は何だったんだという話ですね。

 

じゃあ何で最初っからキャプチャすればいいと言わなかったのかというと、それだと解決しないメンドクサイ人種が居る訳ですよ。俺とか。上で作った動画も、キャプチャすればもうスマホだろうがなんだろうが俺の意図した通りに表示される訳ですが、それは出来ないし、余程の事が無い限りやりたくない事なんですよ。俺がキャプチャについてどう考えているかというのは、長々書く必要が無いですね。何故なら、既にozto氏が俺の言いたい事を下の記事で書いていますから。俺の意見はozto氏とほぼ同意見です。

何故「コメントアートmix」をうpするか。

 

キャプチャされた瞬間、コメントというのはコメントではない「何か」変わるのですよ。最早コメントとは呼べない「何か」に。

 

後、ここは多分ozto氏とは違う考え方でしょうが、コメント職人の中では「自然すぎてコメントだと気づかなかった!」みたいな言葉を最大級の褒め言葉と考える一派があるのです。動画の一部と化す様なコメントを作るのが理想だと。しかし俺に言わせると、この言葉は褒め言葉でも何でもないです。俺が言われたとしても多分ノーリアクションですね(一度も言われた事ないけど)。

 

俺は見た瞬間に「うわぁ、これはコメントだ!」と解る如何にもコメントらしいコメントが大好きだし、コメントとしての主張が強いコメントが好きなのです。コメントせずには居られない、動画に干渉せずには居られない! というコメント投稿者の熱意までもが伝わってきたら更に良い。そもそも「動画の一部みたいなコメントを作りたいのであれば、動画を作ればよくね?」という素朴な疑問がある。

そんなのつまんないよ

 

 

動画ではなく、あくまでもコメントでなくてはいけないという頑固な思いがある。なので、動画の一部どころか、動画と化したコメントっぽい「なにか」になった瞬間、自分のコメントは価値も魅力も大暴落を起こす。ただこれは、ozto氏も述べている様に他人のキャプチャを否定する発言ではなく、あくまでも「自分の」作品は、コメントだからこそ価値がある、と考えているという事です。

 

だから経済学的な合理性が無い限りキャプチャはしないし、可能な限り生で、ライブで見て欲しい訳ですよ。その結果、ライブで見れない人が大量に発生したとしても、それは仕方が無いと受け入れなくてはいけない。力量不足だ受け入れろ。

 

 

こういうメンドクサイ価値観の持ち主でありながら中々妥協しないメンドクサイ人間は、制作する時はあれやこれやと考えなければならない訳ですよ。俺は視聴者に「コメント」を「体験」して欲しい。だからと言って、何から何まで全部ライブでしか公開しないという事はないですよ。状況が変わればやるべき事も変わる。例えば下のCAなんかは、動画は一切公開せずにキャプチャのみをSNSで公開するという形式をとっています。

 

まごころを、君に

 

俺の制作環境は、win7+chromeです。他の環境だとこのCAはどう見えるのか自分の目で見た事は無いのですが、多分崩れます。win10だとアルファベットのフォント自体が違っていて横幅も違うからどんな表示になっているのか解らないし、macだと何の対策もしてない2588を使っている時点で多分別の物になっている。そしてこの作品は、見れる人は限られるけど俺が作りたいからそれでいいんだ、という作品ではないのですよ。

 

これは自分の為に作った作品ではない。広告主に捧げるCAなのだから、広告主が見れなかったら何の価値も無い訳ですね。「自分が作りたい」とか「視聴者に体験して欲しい」とかの動機で作ったものではなく、メッセージを伝える為に作った物なのだから、キャプチャで公開する形式がベスト。そこには合理的な理由がある。コメントではない「何か」に変わっても私は一向に構わんッッッ!!

 

さて。長々書いてきましたが、今回の記事は「各々で考えてみましょう」という記事なので、最後に何かの結論やまとめがある訳じゃないんですよね。ただ一つ俺の方から言っておきたい事は、両極端はどちらもいずれコメ職人ではなくなってしまいます。「視聴者は神様」「作り手は俺様」の両極端。片方の極地は「コメントしない事が一番のコメントアートだ」になり、もう片方の極地は完全なる引き篭もりとなって誰にも存在を認識されなくなる。

 

「視聴者は神様」と語る人達はいくらでも居るので、バランスを取る為にも「作り手は俺様」という事を語る勢力が居てもいいと思うわけですよ。こういう考えを広めようとする時点で自分はやくざもんなのだと自覚はしている。やくざ物の務めを果たしましょう。この両端の間には無限のグラデーションがある。選択肢は一つではない。それなのに清廉潔白な二者択一を迫られたら、どちらかの費用がインフレを起こして何も出来なくなりますね。水清ければ魚住まず。

 

 

そんなこんなで今回の記事はここまで。

 

 

それでは、次回の記事までごきげんよう。

コメント職人を哲学するカテゴリの最新記事

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。