彼らがマイメモリー機能を廃止した時

彼らがマイメモリー機能を廃止した時

 

ニコニコ動画リニューアルのお知らせ。

 

コメントサーバー・システムのリニューアル

 

これを読んだ瞬間の俺は、ジブリ映画並に髪の毛がザワッと逆立ち始め、あやうくフリーザをも倒せる伝説の戦士へと変身してしまう所でした。

 

「すぐに跡形も無く廃止してやる!! あのプレイヤーの様に!!」

「あのプレイヤーの様に・・・・? flashプレイヤーの事か? flashプレイヤーの事かーーーーーッッッ!!」

 

特に、既存のマイメモリー機能を全て破棄して廃止するのがデカすぎる。

 

その時の激情のままに書き綴った文章を、勢いのままこのブログに公開するのはやめておきます。ブログの読者層が普段とは160度くらい違った人達が集まってきてしまう。これはマイフォルダに監禁しておこう。ご安心下さい、この記事はいつも通りのテイストで書いていきます(多分)。

 

それにこの怒りの気持ちは俺の個人的事情に由来する物であり、そこに「公」や「理」は無いので、表明する意味もあまりないです。

 

 

 

どこにそんな怒る要素があるのかというとだ。今回の件を、俺はニコニコにおける文化大革命だと捉えています。

 

中国共産党の文化大革命により、チベットの6000を越える僧院や膨大な数の宗教芸術は悉く破壊された。そして今ニコニコでは、2007年実装から13年に渡って大切に積み重ねられてきたマイメモリーとその文化が、微塵も残さず破壊される事が確定されている。自身の大切な物を破壊されつくされてなお「いやぁ、新しい文化を押し付ける為に既存の文化は邪魔だから、仕方ないよねぇwwww」とヘラヘラ笑っていられる程俺は聖人でも君子でも無いんだよ。文化的価値を知らない人から見たら「壊されたってどうでもいいじゃんそんな物」となる辺りも、正に文化大革命。

 

後、これはしっかり書いておかないと誤解する人が出そうなので書いていおくが、俺は運営に対しては(そんなに)怒ってないですよ。運営に対してあまり期待する事は無くなったので、ギャーギャー騒ぐ事はそんなに無いです。運営に期待しろと言っても、長年コツコツと積み重ねてきた運営の不信は一朝一夕では到底拭えない。運営に期待してたら「失望した」とか「買いかぶり過ぎていた」という感想も出こようというもの。

 

俺が怒っているのは、自分自身に対してです。俺に力があったらマイメモリーを守る事は出来た。それなのに今まで何もしてこなかった自分自身の怠惰さと不甲斐無さに腹が立つ

 

例えば、俺がちゃんと大富豪になってドワンゴの筆頭株主になっていたらこの事態は防げていた。

 

株主総会で、ワイングラスをクルクル回しながら俺の足元で片膝立ちになった役員達の頬を札束でペチペチと叩き(本物の大富豪を見た事がない俺が脳内で思い描く大富豪のイメージ)、「何? マイメモを廃止する? 莫大なコストがかかるから? で、そのコストってのは年間いくら必要なんだ? 言ってみろ」と言えば、俺のポケットマネーと鶴の一声でマイメモは存続された訳だ(株とは無縁の俺が脳内で思い描く株主総会のイメージ)。

 

マイメモ機能を使っているユーザーが全体の0.14%しか居ないと言っても、仮にそのたった0.14%のユーザーがニコニコの売り上げの90%をもたらしているとしたら、企業はその0.14%の意見を採用しなければいけない。それが資本主義ってものでしょう。

 

他にも出来る事はあった。例えば、マイメモの問題の一つに利用率の低さがある。そして利用率の低さの原因に、そもそもマイメモの存在を知らない、何の為にあるのかも知らない、知っていてもどこに使用ボタンがあるのかも解らないという不遇の扱いがある。

 

だったら運営の代わりに俺が、マイメモの活用法や面白さや便利さを伝える啓蒙活動を行い、ニコニコユーザーの誰も彼もがマイメモ使いまくるという状態を作っておけば良かった訳ですよ。

 

流行に敏感な全国の女子高生達が「ニコニコのマイメモってチョーイカスんですけどぉwww」とか「ニコニコ使っているのにマイメモは使わないの? うわwwそれマジウケルーww」とかなるくらいに浸透し、マイメモ廃止すると聞いた途端に全国で発生した暴徒がニコニコ本社に結集して爆破予告をするくらいの啓蒙活動が出来ていれば、マイメモ廃止は防げた。

 

守れたはずのマイメモを守れなかったのは、俺自身の怠慢と力不足に由来するもの。だから、自分以外の他者に怒りの矛先を向けるのは、八つ当たり以外の何物でもない訳ですよ。

 

 

 

こう言った話をすると「自惚れんなこの野郎」とツッコミが飛んできそうだ。スポーツ漫画にありがちな展開ですね。試合に負けた時に主人公が「すまない、俺のせいで負けてしまった」と言うと、それを聞いたチームメイト達から「自惚れんてんじゃねぇバカ野郎」と怒声が飛んでくる。テメーにゲームを左右するだけの力なんて無いんだよっていうメッセージだ。

 

 

 

 

内心自惚れじゃねーよと思ってはいるのですが、実質何もしてこなかったので、客観的に見ると自惚れ以外の何物でもないですねハイ。自分に何が出来るかは口ではなく行動で示すべし。

 

と言っても、マイメモ廃止を防ぐ為に今から出来る事なんて何もないんですけどね。このリニューアル決定はまず変わらない。何かを新しく創るのは困難さが伴うが、壊してしまうのは造作もない事。壊す方のリニューアル作業は、何の障害もなく予定通りに進行する事でしょう。

 

そもそもこの記事は、マイメモ廃止を防ぐ最後の足掻きで書いている訳ではないです。どんなに声を挙げた所でどうせ何も変わらないという諦観の下で書かれている。足掻くだけ無駄。声を挙げても無意味。だったらこんな記事書いてないで大人しくしてろよって話だが、今まではそうしてきた。

 

そしてその何もしなかった積み重ねの結果がこのリニューアル決定なのだ、というのが今回の記事の内容です。では本編に入っていきましょう。

 

 

 

 

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき

 

俺の文才だと、マイメモリーへの想いを綴ったポエムを書くという流れには乗れそうも無いので、代わりにとあるポエムを紹介します。ポエムと言ってもタイトルは「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」というロマンチックの欠片も無い、生々しい実体験に根差したポエムですけどね。

 

成り立ちなどの詳細を知りたい方はwikiへどうぞ。そもそも厳密な意味でのオリジナルが存在せず、手を変え品を変え口伝で人々に伝わったので、wikiにのってある文と俺が知っている文は若干異なるけど特に問題は無いです。この手の文章は原理さえしっかり抑えて置けば、枝葉末節に改変を加えても文意は変わらないのでオーケーだ。そのポエムってのは以下の通りです。

 

 


 

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき

 

ナチスが最初共産主義者を攻撃した時、私は声を挙げなかった。

私は共産主義者ではないから。

 

続いて彼らが社会主義者を攻撃した時、私は声を挙げなかった。

私は社会主義者ではないから。

 

続いて彼らがユダヤ人を攻撃した時、私は声を挙げなかった。

私はユダヤ人ではないから。

 

そして彼らが教会を攻撃した時、私は教会の人間なので声を挙げた。

しかし、それは遅すぎた。

 


 

 

 

 

 

今俺の身に起こっている事は、つまりはこういう事です。

 

「どういう事だってばよ!」と思われる人に向けて話すと、もう何もかも遅すぎだという話です。

 

彼らがコミュニティコメントを廃止した時、俺は何一つ行動を起こさなかった。

俺はコミュニティコメントを活用せず、無関係の話だったから。

 

彼らがニワン語を廃止して代替機能は実装しないと決定した時、俺は何一つ行動を起こさなかった。

俺はニワン語を使わず、無関係の話だったから。

 

そして彼らがマイメモリー機能を廃止した時——————

 

 

 

 

 

 

 

これはコメントに直結したリニューアルだけの話ではないですよ。彼らがニコレポコメントを廃止した時、ニコるを廃止した時、ニコニコまとめを廃止した時、マイリスの一言コメントを廃止した時、動画再生数やコメント数の端数表示を破棄した時etc.

 

自分には関係ないからいいや、と何もアクションを起こさなかった場合どうなるか。いざ自分に関係するリニューアルが行われる時には、最早ニコニコには誰も声を挙げる人間が残っていなかった、という事態になる。真綿で首を絞めるが如く、ジワジワとニコニコから離れるユーザーを増やし続けたらどうなるか。残るのは動画のサムネをクリックする以外のアクションを行わない極めて受動的で、運営にとって実に都合のいいユーザーだけになる。そして声を挙げる人間は誰もいなくなった。めでたしめでたし。

 

 

無関係じゃありません。綿々と繋がって関係しています。「あまり使われていないから、廃止するか」「使われまくっているけど、コストがかかるから廃止するか」という前例を放置してきて、見過ごし続けてきたのならばいつの日か彼らの手はあなたの所までやってくる。今回は俺の所にやってきた。マイメモリーから多くを学び、マイメモリーに育てられてきた人間として、今回の件は後悔しかないですわ。全ては遅すぎた。今まで傍観者になり過ぎていた。

 

 

 

 

コメントアートに必要なのはニコニコの「マイナーな機能」

 

 

そして運営は今回新たな前例を加えようとしているので、これで終わりじゃありません。始まりです。今回からは「利用率」なる具体的な数字を水戸黄門の印籠の様に振りかざしてきた

 

 

 

 

 

 

具体的な数字・・・・とは言った物の、何が分子で何が分母でどうやって計測しているのか解らないのだから、この数字が一体何を表しているのかサッパリ解らないですね。解ると豪語する人はエスパーです。解るのは、この数字を見た人に「うわぁ、使っている人は凄い少ないんだね。これじゃあ廃止されても仕方ないね」という印象を与える事。あくまでも印象でしかない。その気になれば計測する人によって好き放題弄れる数字に一体何の意味があるというのか。

 

そもそもこれらの機能を利用率で測定するのがおかしな話だ。

 

まずマイメモリーというのは、「蔵書」であり「アーカイブ」なのです。手元にあっていつでも直ぐにアクセス出来る事に意義がある。存在その物に価値がある。一切読まなくても、部屋の本棚に置いておくだけで価値がある本ってのがある訳ですよ。広辞苑の様に3000ページを超える事典を読破率で計ろうとしたら、本全体の1%も読んでいない人が殆どでしょう。俺も置いてはいるけど殆ど読んではいない。それを全然読んでいないから要らないよね、って言われて勝手に捨てられた気分ですわ。必要になった時一瞬でアクセスできる事に価値があるの!

 

更に言うなら、利用率が原理的に増えない仕組みを作っておきながら、利用率を持ち出すなって話だ。マイメモリーはたったの50件しか作成できない。プレミアム会員ですら250件だ。マイメモリーというのは、エリクサー並に貴重で使い所を考える資源なのですよ。薬草やポーションの様にポンポン使えないのだ。とりあえずマイリスしておくか、という気楽に使えるマイリスト機能とは別格なのですよ。

 

気軽にポンポン使いたかったら、マイメモ専用の別アカウントを用意するしかない。50件カンストしたら、次のアカウントへの繰り返し。この「カンストしたアカウント」はどの様に計測されているのでしょうね。もしも「直近1年間で新規のマイメモを作成したか否か」で計測しているのであれば、マイメモ専用アカウントの多くはマイメモ利用率がゼロになるという頓珍漢な事態になる。先にも書きましたが、こうやって計測する人次第でいくらでも条件を弄れる利用率が、一体何を意味しているというのか。

 

マイメモだけではなく、削除動画のコメント閲覧を廃止する件もそうです。墓参りなんて毎日するもんじゃないですよ。ふと懐かしい気持ちに浸りたくなった時、チラッと覗いてみたり、削除後にコメントされた削除を惜しむ同氏達のコメを見て感慨にふけったりする物。利用率で価値を測るものではなかろうに。

 

しかも「『動画が消えていない』という投稿者のお問合せがあり」って何だよ!! マジでなんなんだよ!! じゃあ「削除動画が開けません」という投稿者のお問い合わせがあったら、Fooさんの演奏は復活するのか? 復活しないんだろ。なんで「そっち側」の投稿者の言う事は聞くのに、「こっち側」の投稿者の言う事は聞かないんだ? この両者の違いはなんだ? その説明が一切ない。ニコニコには上級国民様ならぬ上級投稿者様が居るって事ですかこれは?

 

自分たちにとって都合の悪いユーザーの声を防ぐ為に、都合のいいユーザーの声「だけ」を取り上げ、盾として利用すんなって話だ。それだったら誤魔化そうとせず批判覚悟の上で、自分達の口から本当の事を語る方が好感が持てるって物です(実際に好感を持つかどうかは解らない。しかし、適当にはぐらかしやがって! という不信感は募らない)。

 

思ったような結果が出ない機能に対して、「どうやったらユーザーに使って貰えるのか?」「どうやったらコストを抑えて運用できる様になるのか?」と考えるのではなく、邪魔になったらさっさと切り捨てるというのであれば、一体何の為にその機能を生み出したというのか。自らの手で殺すために生み出したとでも言うのでしょうか? サイコパスか?

 

この得体の知れない利用率なる数字を水戸黄門の印籠の如く振りかざして、「うるせぇ少数派は黙ってろ!」というやり口を黙って見逃していたら、コメントアートの世界に未来は無い。利用率の数字のみで継続・廃止を決定する流れを放置していたら、コメント関連機能なんて悉く廃止になるじゃないですか。

 

 

例えばカラーコード。

普段動画を見てて、パレットに設定されていないカラーのコメントをどれくらい見ますか? 俺が普段見ている動画だと、体感95%以上が白コメントで埋め尽くされていますよ。色がついているとしても、shita big red ばっかり。カラーコードの利用率は小数点以下なのでは。

 

例えば改行機能。

コメントの改行機能を使っているユーザーってどれくらいいますか。そもそもそんな機能が付いている事を知らないユーザーの方が、圧倒的多数派なのは間違いないでしょう。改行機能を知らず、「.」や「,」の記号を積み重ねて高さを調整している見習い職人の姿を、見た事があると思います。

 

そういうのを見ると「あいつ改行も空白文字も知らないのかよwwww」と、高見から小馬鹿にするコメ職人も残念ながら一部いますが、俺はそういう粗削りでも全力でやるコメ職人が好きですね。何故ならカッコ良くて美しいから。腐らず嘆かず、自分が持っているなけなしの技術と知識をフル活用して全力で足掻く姿は、とてもカッコ良くて美しい。

 

 

 

 

技術も知識もロクに無いが、それでもなお作りたいんだ! この動画に足跡を残したいんだ!! というひたむきな情熱をビンビンと感じる。その情熱さえあれば、技術でも知識でも人脈でも、必要な物は全て手に入れる事が出来るので、大物になる可能性を秘めたコメ職人の卵です。

 

そういうコメ職人を見ると応援したくなる。応援したくなると言っても、直接声をかけて改行や空白文字を教えてあげるなんてのは、俺みたいな引き籠り陰キャにはハードルが高すぎて無理なんですけどね。そういう「優しくて頼れる陽キャお兄さん」のポジションは、まー君氏の役割だ。   #まーくん任せた

 

話が大きく逸れた閑話休題。

 

利用率で必要・不必要を測ったら、不必要な物だらけでコメントアートの世界は出来ている。投稿者コメントの利用率は? フォントコマンドの利用率は? 自分専用非公開コマテ動画のコストパフォーマンスは?

 

自分専用の非公開コマテ動画なんて、ずっと再生数0のままで集客効果ゼロなクセして、サーバーの容量だけは使う。これは、ニコニコにしてみたら寄生虫に住みつかれたかのような代物です。ローコスト・ゼロリターン。目の前の数字しか見ない人間には、このゼロリターンのコマテが一体何を生み出してニコニコに何をもたらしているか何て、知る由もない事ですね。

 

コストが理由で削除動画を無くすというのであれば、同じ理由で非公開動画が消される日も来る事でしょう。ニコニコに許されるのは、公開か削除の2択のみになって、非公開などというグレーゾーンをバッサリ切り落とされてもおかしくない。

 

この手の廃止のお知らせが流れてくると、毎回毎回「次は投コメ機能が廃止される番ですねHAHAHAHA」的なジョークが飛び交う。ナイスジョーク、HAHAHAHA。大喜利大会の流れにのって俺もツイッターになんか皮肉を込めたジョークでも書こうと思ったが、ギリギリの所で歯を食いしばって、書き込みたい衝動を抑えた。いざ書き込んだら、本気でジョークじゃなくなってしまう気がしたから。

 

昔の人がこう言った。「予言は常に過去形で語られる(事後諸葛亮)」

 

過去形で書き込む事になってしまうが、マイメモが廃止される兆しは、目に見えて沢山あった。プレイヤーのデザインが変更される度に、マイメモのボタンは見つけづらい窓際に追いやられてた。最終的には新規ユーザーに「マイメモ? 何それ?」と言わせるほどに、決してマイメモを使わせまいという運営の強い意思を感じてた。

 

 

 

 

それでもだ。

 

それでも、まさかマイメモを廃止するだなんて信じていませんでしたよ。ニコニコ独自の「コメントに関する機能」を廃止にするとは、まるで信じていなかった。だからこそ「このまま行くと、いつかマイメモが廃止される日が来るなHAHAHAHA」というジョークがジョークとして成り立っていたのである。

 

ジョークがジョークとして成り立つ前提条件は「まさかそんな事が起こる訳ないだろ」という盤石の土台を共有出来ている事。俺の中でその土台が揺らいだ。

 

ニコニコが投コメやカラーコードや改行機能を廃止する事は「絶対に」無いと信じているから、「投コメ廃止の日は近いなHAHAHA」というジョークが成り立つ。もはや今の俺はこのジョークで笑えない。盤石だと信じていた土台は、実は今にも割れそうな薄氷の上だったのだから。薄氷の上でタップダンスを踊るが如き覚悟が必要になる。

 

しかもその手のジョークを書き込んだら、運営にとって都合のいいユーザーとして利用されるのでは、という危機感も募る様になりました。例えば、運営がメンテが面倒くさいとかの理由で投コメを廃止したいと思ったら、

 

「ユーザーの方から『投コメ廃止した方がいいんじゃないの』というお問い合わせを多数頂いた結果、断腸の思いで投コメを廃止する運びになりました。今まで投コメを活用してくれたユーザーの皆様、本当にありがとうございました。因みに投コメの使用率は0.1%以下です」

 

という今回のリニューアルと同じやり口に利用されるのでは、という危機感。その結果は本当に「運営内でも長い期間をかけて議論し、現状のまま機能を残す方法を模索した」結果なのか?

 

 

 

彼らが「最初」マイメモリー機能を廃止したとき

 

目先の数字で必要・不必要を判断する流れが出来たのであれば、今回のリニューアルは終わりではなく始まりになります。「彼らがマイメモリー機能を廃止したとき」ではなく、「彼らが『最初』マイメモリー機能を廃止したとき」という新しいポエムの誕生だ。

 

 


彼らが最初マイメモリー機能を廃止した時、私は声を挙げなかった。

私はマイメモリーを使わない人間だから。

 

彼らがカラーコードを廃止した時、私は声を挙げなかった。

私は一般会員だから。

 

彼らが改行機能を廃止した時、私は声を挙げなかった。

私は積みCAしか作らないから。

 

彼らが投コメ機能を廃止した時、私は声を挙げなかった。

私は通常コメで制作しているから。

 

そして彼らがニコニコのコメント機能を廃止したとき、私は初めて声を挙げた。

しかし、それは遅すぎた。


 

 

コメ職人の中でもマイメモ機能を殆ど使わないって人は多いと思う。「文脈依存ではない、独立したコンテンツを制作しているコメ職人」の場合、そもそもマイメモを作成する理由も動機も薄いですからね。

 

文脈依存ではないというのは、作品を成り立たせるのに映像が要らない、音声も要らない、他の視聴者のコメントも要らない、当時のタグや動画説明文も要らない、スクショを一枚バンと貼り付けるだけで作品として成り立つ、という事。

 

ヒロス氏の分類でいう所の「脱ニコニコ化」されたCAを作っているコメ職人の事ですね(「コメントアート」への認識 -その成り立ちと発展-)。ニコニコから独立しているのだから、ニコニコの「環境丸ごと」保存するマイメモリーの必要性にはそれほど迫られていない事でしょう。

 

そういう人達にとって今回のリニューアルは、コミュニティコメントが廃止されると聞いた時の俺と同じ位のリアクションしかしてないと思う。ですが、間違っても「マイメモ使わなかったからな。別にいらねいらね」的な事を言うのは辞めて置いて欲しい所です(今の所居ないけど)。それは未来の自分や次世代の首を絞める事に直結しているから。

 

コメ職人ならば誰しも「○○機能が廃止されたら、俺はもう引退するか、ニコニコ去るわ」位の重要視している機能がある事でしょう。その最重要の機能にまで、彼らの手が届く事になります。そしてその時にはもう自分の周囲には、声を挙げる人間が誰も居なくなっていたというディストピア。

 

「ニコニコが○○機能を廃止する訳ないだろ。大げさに考えすぎなんだよバカ野郎」と突っ込まれるかもしれませんが、俺だってずっとそう思ってましたよ。マイメモ廃止を発表されるその瞬間までは。

 

だからこそ今回この記事を書きました。今までは運営からどんな仕打ちを受けても、サキエルに頭を貫かれたエヴァ初号機の如く沈黙を守り続けてきましたよ。どうせ、何を言っても無駄。声を挙げても徒労。しかし今回だけは、引き籠らずに声を挙げねばならない。未来の自分や未来の世代がカラーコードや投コメや改行機能で遊ぶ機会を守る為にも。

 

 

 

 

 

 

少しはカッコつけなきゃぁいけないんですよ。とは言っても、俺の力で出来る事なんてたかが知れているんですけどね。この記事も、豆鉄砲の威力すら持たない事でしょう。俺の豆鉄砲が運営に届く事は無いし、届いたとしても傷一つ付かないだろう。リニューアルは滞りなく進行する。

 

それでも、利用率なる水戸黄門の印籠を振りかざし、少数派を踏みつぶそうとするその安易な姿勢に対して、抵抗の意思だけは示させて貰いますよ。ニコニコの事を大好きなユーザーが、運営の言う事なら何でも「YES!」と答える信者ばかりと思うなよ。いつもみたいに引き籠っていたいのだが、開戦の口火だけはキッチリ切らせて頂く。

 

 

 

 

願わくば、「利用率が低いから廃止するか」という短絡的な思考から一足飛びで廃止するのは、今回のリニューアルが最後であらん事を。途中にもっとプロセスあったはずでしょ。「どうやったら使って貰えるか?」とか「どうやったらコストを抑えられるのか?」とか。それらのプロセス吹っ飛ばして廃止ですからね。上のポエムが、単なる妄想で終わってくれる事を祈ります。

 

 

 

 

追い込まれているニコニコの現状

 

前フリでも書いた様に、今回の記事は運営に理不尽な八つ当たりをしまくる、という超簡単なプランもありました。

 

 

 

 

しかしそれをしなかった(出来なかった)のは、リニューアル記事を読んでいる内に、相当追い込まれているニコニコの現状が伝わってきてしまったから。あ・・・・(察し)。もしもこれが仮に、無知で無能なクセに決定権だけは持っているトップの独断専行の結果だったら、多分八つ当たりをしまくっていた事でしょう。

 

しかし、どうもそうではなさそうだ。仮に俺が決定権を持つ人間だったとしたら、やっぱり廃止の決断をせざるを得なかったと思う。ここで大事なのは、決断「した」ではなく、決断「せざるを得なかった」という所。全身を引き裂かれるような思いをし、罵詈雑言が自分の所に来ると解っていてもなお、決断せざるを得ない程追い込まれているニコニコの現状。

 

コストカットを前面に押し出すって事は、もうどこにも余裕なんか無いって事ですよ。無駄を許容できるだけの時間も体力も金もありやしない、生きるか死ぬかの緊急事態って事です。

 

ここら辺は「シムシティ」とか「A列車で行こう」とか「プラネットコースター」とかの経営シミュレーションをやった事がある人なら良く解る事だと思います。長年の赤字が継続されて、もう投資できるお金も無い、投資のリターンを待てるだけの時間も体力もない。あれも無いこれも無い吉幾三の故郷状態に陥った時にやらざるを得ないのが、ひたすらにコストカットして支出を抑える事なんですよ。

 

財務諸表や各種グラフを眺めて、ひどい赤字を垂れ流している所からガンガン潰していかないと、ゲームが終わる。ニコニコは経営シミュレーションじゃないガチの経営という相違点はありますが、やっている事は大体こんな感じのはず。4半期の度に黒字報告をしなければいけない縛りがあるとしたら、難易度はゲームとは比べ物にならないほど遥かに難しい事でしょう。

 

今現在のニコニコは凄い貧乏になっている。言うなれば、大震災や巨大台風で避難所生活をしているみたいな物ですね。インフラが途絶え、補給線も途絶え、なけなしの食糧と水をみんなで細々と分けている状態。それほど水が貴重な時に、「髪を洗いたいから水を下さい」とか「お風呂に入りたいからありったけの水を下さい」みたいな事を言ったら、ふざんけんな! という怒声が飛び交う事は間違いないだろう。風呂だの洗濯だの洗顔だのといった「贅沢行為」は優先順位の下の下。生命活動に直結する事以外にどこにも水を使う余裕なんてありやしないんですよ。

 

普段無駄な機能ばかり使って贅沢の限りを尽くしているコメント職人というのは、言うなれば映画版ドラえもんに登場するしずかちゃんのポジションです。生きるか死ぬかの戦場にあって、みんなが食糧の心配したり、はぐれた仲間の心配をしている時、しずかちゃんが考えている事って「お風呂に入りたいわ」って事なんですよね。

 

ごはんが無いのは我慢できても、お風呂が無いのは我慢できない。しずかちゃんは奴隷商人に捕まって逃げるチャンスが生じた時でさえ、真っ先に逃げるのではなく、まずお風呂をたっぷり楽しんでから逃げ出すという徹底っぷり。お風呂に命を懸けているんですよしずかちゃんは。

 

しずかちゃんを養うのは、莫大な維持費がかかるんです。避難所生活みたいな緊急事態になったら、しずかちゃんのお風呂を用意する余裕なんてどこにもありません。今ニコニコは、一部のマニアしか使わない「贅沢な機能」に金を払う余裕なんかどこにもなくなっている訳ですよ(その一部のマニアがニコニコに長期的な金を落とすし、削除された動画の大百科記事を書いたりしてニコニコの歴史や文化を残しているのだが、そんな大切な資産を捨ててまで目先の利益に飛びつかざるを得ない現状。明日の実りを捨ててでも、今日の内に種モミを食わねば死んでしまう。「明日より今日なんじゃ!」。ミスミじいさんも泣いている事だろう)。

 

文化的・歴史的価値を知らない無能なバカが決断「した」ではなく、ニコニコをなんとしても存続させたい運営が決断「せざるを得なかった」という風に俺は捉えました。あのリニューアル記事にどれだけ本当の事が書かれているのかは解りませんが、書かれている部分「だけ」を読み解いてみたら、こんな感じになりましたよ。実際の所どうなのかは知らないけど。

 

ひょっとしたらあの記事は「ああいう風に書いておけば、何も知らない馬鹿を騙す事は出来るだろう」という記事かもしれない。そうだとしたら、俺は見事に騙されたバカって事になりますね。でもどうせ騙すんだったら、未来に希望がある騙し方をしてくれませんかね。

 

それと、俺は技術者ではないのですが「新しい機能を実装するのに古い機能が足枷になる」って表現はちょっと理解できてしまうのですよ。昔作ったコメント作品を修正する時って、修正と言いつつも結局ゼロから新しく作り直した方が簡単で早かったりする。「昔の俺は何考えてこんな構造にしたんだろう?」というのが全然思い出せず、それだったらグチャグチャの土台を全部崩して、今の知識と技術だけで新しく構成した方がいいって事になる。

 

なので新しい機能の為に一旦リセットしたいという技術者の気持ちは解らないでもない。しかし、今回の件で運営は過去の蓄積を「資産」ではなく「負債」と考えている事が解り、運営との間に価値観の埋められない断絶を実感しましたね。

 

価値観に共感は全くできないけど、追い詰められている現状はかろうじて理解はできる。そんな感じなので今回の記事では、批判はしても八つ当たりはしないと決めたのです。飲み水すらないのに「私お風呂に入りたいわ」なんて贅沢を運営に向かって言いませんよ。なので怨恨が刻まれた八つ当たりの呪詛は俺の心の中だけに封印しておきます。それはそれ、これはこれ、ですわ。

 

 

 

 

 

より良い未来の為に

 

もうマイメモリー廃止を止める事は出来ないと諦めているが、これ以上コメント関連の機能を廃止させる訳にはいかない。とは言っても、ブログのコメント欄が「ん?」で埋め尽くされる事が予想される「コメント機能を守る為なら何でもします!」みたいな宣言はしませんよ。

 

俺はドラえもんでもなければ石油王でもないのです。出来る事には限りがあります。俺に出来る事は、今の自分でもやれる事を淡々とやるだけです。例えば今回みたいなブログ記事を書いてみるとか。

 

 

 

守ると言っても、コメ職人がコメント機能を守る為にやるべき事って、今までやってた事と何ら変わらないと思っているんですけどね。コメント弄って、コメントで何か作って、動画に投下する。ただそれだけ。

 

ニコニコの機能を、使って使って使いまくってますよ~というアピールをし続ける事だけですよ。なんか付け加える事があるとすれば、1割増し、なんなら1%増しでもいいから、今までよりもアピールを強くしてみるとか。投コメ機能が素晴らしいと思っているのであれば、投コメの素晴らしさ・面白さ・便利さをガンガンアピールしていこう。あわよくば自分の推し機能を周りに布教していこう。マイメモはこの布教・啓蒙活動が足りな過ぎた。

 

そんなんで未来が変わるのかよと冷笑する事も出来るだろうが、今現在も残っている機能というのは、先人達が使いまくってきたからこそ廃止されずに残っているのです。

 

極端な話、使用率が限りなくゼロに近いどころか、完全にゼロで維持費だけはかかる機能なんてあったら、赤字でなくても真っ先に切られてますがな。使っているからと言って廃止にならないとは限りませんが、少なくとも本当の理由を隠すために、利用率なる水戸黄門の印籠を振りかざす事を防ぐ事はできますね。

 

投コメ機能の一つに「改行replace」がある。ニワン語を利用したこの機能はニワン語廃止と共になくなる運命だったが、これを守ろうとして行動を起こしたユーザーの「誰か」が居て、守ろうとした運営の「誰か」が居たからこそ、HTML5に実装されて残り続けている(改行replaceの重要性【コメントアート】 -ヒロスのブロマガー)。

 

使っている事をアピールし、重要性を示したからこそ今の世代もこの機能を使える。今この瞬間も、今の機能を守ろうと自分のやれる事をやっている「誰か」が居るんですよ。

 

 

 

こうやって「世代」ってのは繋がっていくのです。しかしここで早合点して欲しくないのは、これは今現役バリバリでやっている世代に「我々の世代には、先人達が守ってきたものを受け継ぎ、次世代に伝えていく義務と責任が・・・・・」云々みたいな気負いを他人に強制する物ではありませんよ。

 

歴史あるバリバリ体育会系の部活とかでありがちなんですが、「先輩達が築いてきた伝統を、俺たちは守っていかなければならない!」みたい事を声高に宣言されると、ドン引きしてしまう人間ですからね俺は。

 

 

 

 

 

 

 

 

俺は部活動がしたくて部に入っただけなのに、何で得体の知れない物を背負わされるというのか。あまりにも重すぎるがな。なんら変な気負いをする事なく「コメントたっのしーーー!」といつも通りに振る舞うだけで充分ですわ。コメントしたい人がただコメントすればいいんですよ。

 

特別に何かを意識しなくても、それが結果として未来の世代を守る事に繋がっているのです。こんな話をしておきながら、俺自身は1年の内9か月以上は引退している身の上で、アピールできるものなんて何もない現状な訳だ。まずお前自身がコメント守る為に頑張れよって話ですね、ハイ。ですがまたいつも通り引退から復活して、コメント機能が変わらず使えるのを見た時は、守り続けてきた人々に感謝します。

 

 

 

 

 

 

 

終わりに

 

強引に終わらせないといつまで経っても終わりそうにないので、ここで一旦記事を終える事にします。時事ネタのつもりで書き始めたのに、最早いつの出来事を書いているんだって話である。

 

今回のリニューアル。運営にしてみれば本当は苦渋の決断ではなく、「過去ログあるから廃止してもいいでしょ」「キャプチャすれば残せるでしょ」程度の認識なのかもしれない。そうじゃねぇんだよなぁ~。マイメモリーってのは。

 

マイメモリーってのは、いうなればそのコメ職人が「生きてきた証」なのです。特に文脈依存である歌詞職人にとって、マイメモは大切な財産だ。

 

スペインの哲学者オルテガ曰く「人生とは何かを為す過程に他ならない」。コメ職人が、自身の歩んできた足跡を残した公開マイリストは、その人が確かにそこに居たという証なのです。生きていた証なのです。俺はそれらの公開マイリスを見て、会った事も無いコメ職人達に様々な思いを馳せながら独学で学んできた人間なので、今回のリニューアルは心にポッカリ穴が空いたような気持ちです。彼らの生きてきた証が悉く消えてしまう。

 

もし運営が「それ、キャプチャすれば解決じゃね? マイメモ要らなくね?」と認識しているのであれば、俺が一体何に喪失感を抱いているかは決して解らないだろう。この価値観と認識の断絶を埋め合わせる事は難易度ベリーハードですわ。

 

 

 

 

 

彼らの生きてきた証の殆どが消え去ったとしても、せめて俺は心のマイ・メモリーにしっかり保存して残しておきます。マイメモ機能、今まで大活躍してくれて本当にありがとう。そしてさようなら。

 

 

 

 

今回の記事はここまで。

 

それでは、次回の記事までごきげんよう。

コメント職人を哲学するカテゴリの最新記事

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。