そもそも紹介すべき「自己」とは何か? -主人公としての自己を出そう-

そもそも紹介すべき「自己」とは何か? -主人公としての自己を出そう-

 

我が名はメモ帳!

 

名も知らぬ歌詞職人の作品に心奪われ、この地へ来た!

 

ここが皆の名乗り口上を求める場か!?

 

 

スピーチは簡潔を旨とすべし。これにはカミソリを構えたオッカムもニッコリ。これで俺の自己紹介記事は終了となります。

 

 

 

 

終劇

 

 

 

 

 

しかし不幸な事にここからコメ哲の方はまだまだ続くらしい。これにはオッカムも激おこプンプン丸でカミソリを振り回す。今回の記事は、自己紹介記事の皮を被ったいつも通りのコメ哲です。

 

自己紹介とは言う物の、そもそも紹介すべき「自己」とは何かというお話だ。これって結構重要な事だと思うのですよ。だって知らないものをどうやって紹介すればいいというのか。自己を知らずして自己紹介が出来ると言うのであろうか。いや、誰にもできやしない(反語)。

 

それにこれは、創作活動においても重要になってくる。多くの人が、創作を通して自己表現をしている訳だが、そもそも表現すべき自己が解らないのであれば自己表現もクソも無い。そこに自己が無いのであれば、わざわざ手間暇かけて自力で創作しなくても良い。AIに適切な命令を下すノウハウがあれば、自分より遥かに綺麗で上手な創作活動をしてくれるし、誰か他の人の創作物を眺めているだけで満足って事になる。

 

しかし我々がここに居る理由は、そんな代替行為じゃ決して満たされる事の無い「何か」があるからでしょ。

 

イラスト生成AIや文章生成AIは、莫大なニーズがあるし作れば金になるから、あらゆる企業が熾烈な開発競争をし、想像の遥か上をいく進歩を見せている。しかしコメントアート生成AIは、全人類の中では雀の涙程のニーズしかないし、まず儲からないから今の所作られていないし今後も作られる事はない。

 

しかしここで思考実験だ。

 

仮にコンメントアート生成AIが開発されたとしよう。そして作って欲しいCAのテーマを命令すると、テーマに従って1分間に10とか20とか、何ならパソコンスペックによっては100個の作品を出力してくる。24時間稼働させれば、過去17年間ニコ動上で生み出されたCA総数の数10倍数100倍の作品数を一個人が出力すらことすら可能。しかも自分で作るよりも遥かに上手なCAを出力してくる。デフォルト表現も写実表現も、ドットも高精細も思いのまま。人間が出来る事なら全て出来る。

 

さてそうなった時、「やったーー! これであのクソメンドクサイ苦行から解放されたぞー」と、大喜びでAIによるCA製作に乗り換えて、自作を辞めますか?

 

しかもだ。AIに乗り換えた途端、今まで鳴かず飛ばずだった自分に信じられない程沢山のファンが出来て、作品に対する賞賛と評価が津波の様に毎日押し寄せてくる様になったとしたら。あなたに対する評価は全く来ないけれども、あなたの作品に対する評価は日に日に増え続ける。

 

その時あなたは、幸福に満たされながら毎日をニッコニコの笑顔で過ごせる様になりますか。過ごせるようになる人もいるでしょう。しかしそんなのでは決して満たされる事のない「何か」があるというのであれば、あなたは自己表現をする側の人間です。

 

チャットGPTに、記事のタイトルと見出しの構成を与えれば、それっぽい記事をいくらでも量産してくれる訳だが、そんなんじゃ決して満たされる事のない何かがあるから、俺は今こうして「自分」の言葉を使って「自分」で手間暇かけて記事を書いている。

 

この決して満たされる事のない「何か」。それが何なのか明確には解らなくても、既に何となくは解っている訳だ。何かは解らないけど、確かに「そこにある」と。この何となくを今一度哲学してみようではないかというのが今回の記事のテーマ。

 

おお、こういう導入だと珍しくコメントアートのブログっぽい。コメントを通して創作活動を行う読者達へのメッセージになっている。でも中身はいつも通り、CA要素が雀の涙ほどしか混じってないコメ哲なんですけどね。

 

そんな記事ばかり書いているのに、「面白い」と言って読んでくれる読者が居るのは実にありがたい事です。文章、というかアウトプットされた作品全般に言える事ですが、「自分」を出すと、その作品は面白い物になりますよ。この面白いというのは、ギャハハハハという面白さではなく「interesting」の方の面白さですけどね。この「自分」を出さないと、コピペやテンプレやAIで代替可能になってしまう。じゃあその前面に押し出す為の「自分」とは何か?

 

という事で、早速本編に入っていきましょう。

 

 

 

実存主義的なアプローチ

 

今回の記事の目的はハッキリしていて、俺にしては珍しく「使える」形に落とし込もうという所です。既に自己紹介記事書いた人が記事を修正したり、これから書く人が参考にしてすぐ使えるレベルにまで噛み砕きたい。そうでないと書く意味がないですからね。これを読んだ人が、ちょっと手を加えるだけで「面白い」自己紹介を書く事ができ、それを読んだ俺が楽しめるようになれば、今回の記事は大成功だ。俺のせいでつまんなくなったらゴメン。

 

さて。その為にはどの様なアプローチをすればいいか考えた結果、哲学の一派である実存主義的なアプローチをするのがベターだろうという結論に落ち着いた。それが一番使える。

 

そして実存主義における自己の定義は以下の通り。

 

「自己とは、自己となるべき、自己である」

 

そして自己となるべく常に自問自答すべき質問が、以下になる。

 

「今の私は、あるべき私であるか?」

 

以上。

 

この簡潔な説明に、またしてもオッカムがニッコリ。でもこんなんで「確かにその通りだ!」と納得できる人が居る訳がないので、ここから長々解説していく事になるんですけどね。マンガにしてもアニメにしても歌にしても、実存主義の作家が生み出す実存主義的な作品は多々溢れているので、実はとても身近な思想なんですよ。馴染みが無いのは言葉遣いの方なので、言葉を丁寧に解説していきます。

 

実存主義とは何か?

 

まずは実存主義の実存とは何か。これは「現実存在」の略称です。なんでそんな変な所で区切って居るんだって話ですが、「現実存在」を他の略称にすると、「現存」だの「現在」だの既に使われている別の意味の熟語になってしまう。それで実存になります。

 

実存主義とは、現実存在を重要視する哲学、という意味です。じゃあ現実存在って何やねんって話だ。そもそも現実じゃない存在があるのか云々。一口に「存在」と言っても、伝統的な哲学の世界では存在を意味する単語が2つある。

 

本質存在(essentia)」と「事実存在(existentia)」だ。

 

本質存在というのは「Aは○○である」みたいに表現され、読んで字の如くその存在の本質を示す。そのものの定義と言ってもいい。日常的に使うであろう「私っておっちょこちょいな人間なんです」とか「コメント職人とは、コメントで何かを作ろうとするニコ厨である」みたいなのは、本質存在を示している。

 

それに対して事実存在は「Aがある」という形で表現される。その事物が現実に有る事、知覚可能な具体的事物として実在する事を意味する。この知覚可能って所が凄く重要。事実存在は、見たり触れたりする事が出来る。それに対して本質存在というのは、見る事も触れる事も絶対に出来ない。これで2つを明確に分ける事が出来る。

 

ここでちょっと考えて見ましょう。

 

俺と読者のあなたが、学校のクラスメイトだっとします。んで、休み時間に教室の中で雑談している訳ですよ。そこでふと俺がクラスメイトのあなたにこんな事を言います。

 

「誰でもいいから、教室に居る『人間』を指さしてみて」

 

あなたは質問の意図が解らずポカンとしつつも、やれやれまたいつもの発作が始まったかという顔で付き合ってくれて、取り合えず俺の方を指さす。そしたら俺は、クソまじめな顔で「違う違う。俺は人間じゃない」と答える。「俺は人間じゃなくて、メモ帳君だよ」と。

 

同様にあなたが他のクラスメイトを指さす度に俺は、「それは佐藤君。それは鈴木さん」と答える事になる。「人間」なる普遍で抽象的で本質的な存在など、現実のどこにも存在していないのですから。

 

言わんとする事は何となく伝わったでしょうか? 本質存在は見る事も触れる事も出来ないのだから、当然指さす事もできません。「人間」という本質存在は、現実のどこにもおらず、概念の中にしか存在しないのです。存在しない物を、存在している方向に指さす事は当然できませんよね。

 

「部屋」は現実のどこにも存在しないけど、「今こうして記事を書いているメモ帳家の部屋」は確かに存在している。「コメ職人」は概念の中にしか存在しないけど、現実のPCを使って現実のサイトにコメントを投下するコメ職人のあなたは、しっかりと存在している。本質存在と現実存在の違いはまあ、こんな感じ。

 

デカルトに始まりヘーゲルにして頂点を迎える近代の理性万能(偏重)主義哲学は、人間の理性を使ってこの本質存在を追求する事に熱中した。人は理性を正しく用いれば、普遍的で唯一絶対的な真理に辿り着ける、という理性を至上の物とする思想。

 

「人間とは何か?」「時間とは何か?」「理性とは何か?」「ア・プリオリな総合判断はいかにして可能か?」みたいに、この世のどこにも存在しない概念を追い求めたのです。ガチの哲学研究者がこの説明聞いたら乱暴すぎる説明にブチ切れ案件だろうが、解説の為にめっちゃ簡略化してます。カントはむしろ理性の限界を見極めようとした人だし。

 

そして、それらのテーゼに対して「そんなんじゃ・・・・・・ねぇだろうが・・ッッ!!」とアンチテーゼを突きつけたのが、実存主義哲学の開祖であるキルケゴール。キルケゴールは以前の記事でも出てきましたね。エヴァのタイトルにもなった、中二病患者が声に出して読みたい日本語ベスト10に入るタイトル「死に至る病」の著者として知られる哲学者。

 

客観的で人類普遍の真理を見出したとして、それが「人類」という現実のどこにも存在しない存在の為に用意されたのだとしたら、一体何の意味があるというのか。今ここに、現実に存在している「私」にとって大切なのは、「私」にとって真理と言える真理を見出す事ではないか、とキルケゴールは『ギレライエの日記』の中で述べる。

 

本質ではなく、現実に存在している私にとっての真理を見出し、その私の真理に従って生き、従って死ぬ。それが、実存主義と呼ばれる一派です。

 

わたしはわたしの常識で生きたいの

 

 

 

現実存在を理解する為のキーワード

 

先に言い訳から書いて置きます。ここから先は、言葉(概念)で説明できない物を言葉で説明しようとするので、スッキリ理解できる物にはなりません。それでも足掻けるだけは足掻きますが、モヤモヤした事になるでしょう。言葉で説明できるって事は、それは現実存在ではなく本質存在について語っている事になる。

 

難解さで知られる哲学者ハイデガーの著作に「形而上学入門」という、入門させる気が微塵も感じられず、門戸を叩いた学徒の手首をへし折る著書がある。その形而上学入門の中の一節。

 

 

「もちろん常識的な人は、習い終えてもはや習う必要のない人こそ、知を持っていると思って居る。が、そうではない。知っている人とは、常に繰り返し習わねばならないということを理解していて、この理解に基づいて、何よりもまず、いつも習う事が出来るような状態に自分を置いているような人だけである。この事は知識を保持するよりもずっと難しい」

 

 

ここで重要なのは「知を持っている」と「知っている」の対比です。日常生活においては、これらをゴッチャにしている人が多いけど、知識を持っているのと、知っているは明確に違う物であると。そして知っているというのは、知識を持っているのに比べたら遥かに難しい。

 

これはパソコンのソフトなんかを思い出してみれば解り易いかと。パソコンのソフトやソシャゲやニコニコのコメント仕様なんかは、定期的にアップデートされて、以前とはガラッとUIやら仕様やらが変わる事があります。その度に、めんどくせぇなと思いながらも、使いこなす為には新仕様について学び続ける必要がある。学ばないと、無知の人と同じく使い方が解らなくなってしまうから。

 

もしも今現在、元コメント職人が、昔の知識のまま10年ぶりくらいにCAを作ろうとしたら

「え? 改行ってどうやんの?」とか、

「空白文字は、取り合えず最強の00a0使っておけばオーケーでしょ」とか、

「マイメモリー作成ボタンはどこ?」みたいな事になる。

 

「知識を持っている」と「知っている」の違いがここにある。この例で出したコメ職人は、コメントの知識は確かに持っています。しかし、知識を持っているが知っている訳ではない。知っている人というのは、常に変化する現実を習い続けねばならないと理解している人であり、実際に習い続ける人の事です。そこに終わりはない。

 

まあ、ニコニコのコメント仕様はここ数年、大きな動きが殆どないからそこまで致命的にならないだろうが、現実というのは今この瞬間も、ニコニコのアップデートとは比べ物にならない勢いで時々刻々と変化し続けている。現実存在である自分を知る難しさはここにあるのです。一生かけて習い続けねばならないのですから。

 

言葉で説明できるものでは無いのですが、それでも理解の助けとなるキーワードを言葉で説明する事は出来るので、足掻けるだけは足掻きます。

 

キーワード1「今、ここ」

 

現実というのは、「今、ここ」にあるものだけが現実です。それ以外は自分自身が抱いているイメージだの像といった概念にすぎない。過去も未来も触れる事すらできない。「今、ここ」の現実だけが、見たり触れたり影響を与え合う事の出来る存在なのです。

 

今だけが現実であり、今以外は「過去」や「未来」と呼ばれ、概念の中にしか存在しない。そして「ここ」に居る限り、ここ以外のどこかに同時に存在する事も出来ない。ドイツ哲学の伝統的なカテゴリー分けなのですが、人間はこの「時間」と「空間」というカテゴリーの中で存在しているし、この中でしか存在できない。限界があるのです。

 

大人は子供に向かって「夢見がちだ。現実を生きていない」というが、これは的外れな指摘です。子供と言うのはとことん現実を生きているし、もっと言うと現実の中でしか生きられない。

 

大人の殆どは「今、ここ」という現実ではなく、遠い未来や過去ばかりを見ていて現実を生きていません。俺自身、この記事書いている真っ最中にも「ああ、正月休みが終わって明日から仕事が始まってしまう」と未来に意識が吹っ飛んだり、「もっと計画的に正月休みを過ごせば良かった」と過去に意識が吹っ飛ぶ事がしょっちゅうだ。「今、ここ」という現実を生きていない時間の方が圧倒的に多いのでは?

 

終いには、概念と現実をゴッチャにして「ああ、本当だったら今頃後悔なく満たされた気持ちで正月休みを終えるはずだったのに」とのたまう始末。いやいやいや、このダラダラ過ごした正月休みの方が「本当」で「現実」で「リアル」だっつーの。何自分が正月休み前に描いた概念を「本当」扱いしとるねん。

 

今読んでいるあなたの部屋に窓があるなら、窓の外の遠くの方を見て下さい。遠くの景色に焦点を合わせると、近くの窓枠やら自分の手やらがぼやけますよね。遠い未来や過去を見れば見る程、現実というのはぼやけて曖昧になっていく。何もかも「現実感」が無くて、自分の事が他人事に見えて人生の傍観者になっていく。「心ここに在らず」という表現が実にぴったりあう状態になりますね。

 

大人がそんな所ばかり見ているのに対して、子供というのは全力で「今、ここ」しか見ていない。子供が何かをする時、後で大変な事になるとか後でお母さんに怒られるかもみたいな、未来の事なんぞ度外視で「今、ここ」を全力で生きるものです。「ここで断ったら将来の人間関係にヒビが入るかも」なんて事も考えず、嫌な物は嫌だと断固拒否する。大事なのは「今、ここ」の現実のみ。子供と言うのは徹底的な現実主義者だし、現実を生きる事しかできないのです。

 

子供の頃は何であんなに毎日が充実して楽しかったんだろう、という疑問に対する答えがこれですね。大人の様に生きているんだか生きていないんだか解らないぼやけた世界ではなく、現実感に満ち溢れた現実の世界を生きているから。最高のリアルが常に会いに来ているから。未来を眺めて「不安」になったり、過去を眺めて「後悔」している暇などないのです。

 

大人になると、もはや現実を生きている時間の方が少なくなりますね。仕事の最中は、ずっと週末の休日の事ばかり考え、いざ休日になったらなったで、明日からもう仕事が始まってしまうと嘆いてばかりいる。遠く遠くの未来ばかり眺めて、現実がぼやけて見えていない。リアリティアの無い現実をかろうじて生きている。

 

ついでに言っておくと、子供の成長は何故あんなにも早いのかという疑問に対しては、子供は「生きる準備」をしているのではなく「生きている」から、というのが数ある解答の中の一つになります。

 

 

キーワード2「変化」

 

現実存在である我々は、どんな時も、今この瞬間も常に変化し続けています。望む望まないに関わらず心拍数や体温は変化し、老化は進み、視線や体は動き、意識も移り変わっていく。これが現実の自分です。

 

10年前20年前の自分と今の自分では、全く違う細胞で構成されて全く違う価値観や思想に従う全く別の人間にまで変化しているで事しょう。それほど長期的なスパンでなくとも、1年前・1ヵ月前・1日前、更に言うなら1秒前ですらも変化して、「今、ここ」の自分とは別の存在である。

 

当たり前の事のはずなのに、しかし我々はどこかでこの事を忘れています。「自分とは何か?」と問うてしまうのはその典型的な例です。そこで「自分とは○○である」という答えを得られたとしても、その問われた自分は常に変化しているのだから、答えを得られた瞬間にはもう間違いになってしまう。一秒前の自分と今の自分は別人だし、今の自分と一秒後の自分も別人です。

 

上の方で述べた様に、「知識を持っている」と「知っている」は明確に違います。「自分とは○○である」という明確な知識を持っていたとしても、それは知っている事を意味しない。常に変化し続けているこの自分を、常に知ろうと足掻き続ける態度を備えた人だけが、自分を知っている人と言えるのです。それは、変化している物を変化しているままに、動いている物を動いているまま「知り続ける」という事です。

 

自分を「知る」という事はとんでもなく難しい事なのです。なにせここまでやったらハイ終わり、ではなく、一生かけて知り続けなくてはいけないのですから。何かの性格分析で複数の項目に答えて「あなたは責任感があってチャレンジ精神のある人間です」みたいな回答を所持して終わりではないのです。それはあなたの本質存在について語った物であり、現実存在のあなたを意味していない。

 

 

キーワード3「循環」

 

現実存在である我々は、同じく現実存在である周囲の環境との循環を通して自己を理解しています。自身が五感で感知可能な何らかのメッセージを常に周囲の環境に向かって送り続け、そのメッセージを受け取った環境が同じく五感で感知可能なメッセージを送り返してくる。このフィードバックのループは一瞬の間断なく行われている。人はコミュニケーションをせずにはいられない生き物なのです。

 

これは概念の説明より、具体例から説明してみましょうか。あなたは自分が美男美女であるか、どうやって知る事が出来るのか。

 

あなたが街を歩くと、周囲の異性がやたらとこちらを振り向いてくる。やたらと異性に話しかけられるし、自分の方から話しかけると嬉しそうな顔で受け答えをしてくれる。別の男に「デュフフww 初めましてこんにちは(ニチャァww」と話しかけられた時のリアクションとは明らかに違う。そういう経験を通して「ああ、自分はイケメンなんだ」「私って美人なんだわ」という事に気付く。あるいは逆に身の丈を知る。

 

他人は自分を写す鏡とはよく言われるが、その鏡を通して自分を見ている。

 

比喩ではなく、実際の鏡を見ている時もこの循環が行われている。しかもエンドレスで。一瞬の休みも無く。まずあなたが鏡に映っている自分の姿を見たとしましょう。そこに映るのは「自分」の姿でしょう。そしてその自分の姿を見た瞬間、映っている姿が変わります。そこに映るのは、

 

「『鏡に映っている自分』を見ている自分」が映る事になる。

 

勘のいい人なら、この先何を書いていくか予想できましたね。では上の映像を見た自分の目に、次に飛び込んでくるのは何かというとだ。

 

「「『鏡に映っている自分』を見ている自分」を見ている自分」です。そして勘のいい以下略

 

「「「『鏡に映っている自分』を見ている自分」を見ている自分」を見ている自分」という世にも奇妙な物語にありそうな、徐々に奇妙な物語になっていく。

 

鏡に映る自分を単なる自分だと思ってしまうのは、本質存在と現実存在をゴッチャにしているからです。見ている自分は常に変化しているし、見られている自分も常に変化し続けている。鏡に映るのは、常に変化して動き続けているプロセスなのです。

 

鏡の比喩を理解した所で、次は「自分とは何か」という問いに移ってみましょう。鏡の場合は「見ている自分」と「見られている自分」の循環構造でしたが、問いの場合は「問うている自分」と「問われている自分」の循環構造が発生します。

 

自分で自分に向かって「自分とは何か」と問うたとする。勘のいい読者ならこの先の展開はもう予想できていますね。今ここの自分が今ここの自分に向かって「自分とは何か」と問うのですから、

 

「自分とは何か」とは何か、と再度今ここの自分に答えを求める事になる。勘のいい読者なら以下略。

 

「『自分とは何か』とは何か」とは何か、という問いが続いていく。これって終わりが無いんじゃないの? と思ったかもしれませんが、そうです。この循環に終わりはありません。強いて言うのであれば、この循環の中に飛び込み、常に知り続けようと循環の中で足掻き続ける事が正解となります。

 

先のハイデガーの引用で説明した、「知識を持っている」と「知っている」の違いを思い出して下さい。自分とは何かと問うて「そうか、解ったぞ!!」という答えが返ってきたとしても、それは何の意味もありません。それは抽象化され、現実存在から切り離された概念です。「解ったぞ!」と思って掴み取った答えは次の瞬間、今ここの自分にとっては、循環と変化によって間違いになります。

 

 

キーワードを通しての総括(脱線)

 

さてさてさて。ここまで現実存在について、実存について説明してきましたが、いかがでしたか?

 

「いかがでしたかブログ」の記事であればここで締めに入るのだろうが、あいにくこれは俺の記事だ。これを土台にして更に話題を展開していきますよ。そもそもこんな意味不明な土台だけ渡されて、面白い自己紹介記事を書ける様になる訳が無いだろうが。

 

いかがでしたか? と書く記事主は「当然解りましたよね?」と言外に含んでいるものだが、俺は読者のあなたが解ると思って書いていません。解らないのはあなたの頭が悪いからではないし、俺の説明力が足りからでもない(と思いたい)のです。

 

もう何回も繰り返していますが、上の説明を聞いて仮に「解ったぞ」と思ったとしても、その答えは次の瞬間には間違いになっていますから。これは頭で理解する事に意味がなく、あくまでも自分が実存する事によってのみ体感する事が出来る。頭(言葉)で理解できるのは概念のみです。

 

ハイデガーはその著書「存在と時間」の中で述べた。

 

実存の問いは常に、実存する事そのものによってのみ、決着がつけられなければならない

 

現実存在である我々に出来るのは「決着をつける」事のみです。これを日常語に直すのであれば「背中で語る」って感じになりますかね。言葉で語って説明・理解するのではなく、あくまで自身の振る舞いで、自身の存在で決着を付けるのみ。

 

今回の俺の説明が解り難かったので独学で深掘りしたいという方は、ハイデガーの著書「存在と時間」を読んでみて下さい。そうすると、今回の俺の説明がどれ程解り易かったのかと考えを改める事でしょう。仮に読んでみた奇特な方が居たら、こんなに解り易い説明が出来る俺を少し尊敬して下さい。

 

シュタゲでその名を知られ、好奇心から思わず読んでみたいと言う人を増やしたハイデガーの「存在と時間」であるが、その好奇心を10ページ以内にジャイアンの如くギッタギッタのメッタメッタになぎ倒し、フリーザ様の如く木っ端微塵に吹っ飛ばしてしまう怪物だ。

 

まず第1の壁は、意味不明な用語が次から次へと押し寄せてくる事。

 

今回説明した「今ここ」を、ハイデガーは「現存在」と名付けているし、「循環」を「世界=内=存在」と表現したり、過去や未来ばっかり見つめて正月休みという現実を無為に過ごした俺みたいなダメ人間を「世人」と呼ぶ。

 

一応日本語に翻訳されているのだが、その日本語訳を日本語に翻訳してくれる人が必要である。でも日本語訳が存在しているだけでも、感謝の正拳突きが必要なレベルだ。セイヤ! セイヤ!! セイヤ!!!

 

こんなエピソードがある。翻訳者が、良く解らなくて翻訳出来ない箇所を、ハイデガーに会って細かく確認する為、ハイデガーが居るドイツの大学に飛んだ。そこでかつてのドイツの同僚に会い、話しかけられた。

 

「君は日本に帰ってからは、何をしているんだい?」

「今はハイデガーの『存在と時間』を日本語に翻訳している最中さ」

「それは素晴らしい! 『存在と時間』のドイツ語訳も早く出版されて欲しい所だ」

 

これがジャーマンジョークかHAHAHAHAHAHA。日本語訳が存在しているその奇跡に感謝しよう。意味不明な用語が押し寄せてくるが、それはそれでなんかカッコイイのでカルト的な人気を誇る。

 

でも一番の壁は、動いている物を動いているまま、変化している物を変化しているまま記述しようとしている所です。「解ったぞ!」という理解が何の意味も持たないと考えている人物な訳ですから。なので、どうあがいても「解ったぞ」という体験は出来ない。解った瞬間、それは間違いになる。大事なのは、「知識を持つ」ではなく、「知る」為に足掻き続ける事。そういう鬼の様な事を要求してくる人間なんです。

 

俺はそこまで要求しないし、そもそも自分自身にそこまで要求できていない。「背中で語る」レベルに到底到達していない。でも、まあ・・・・・・・・・・・頑張って足掻いていきましょう。お互いに。

 

大事なのは「解ったぞ」で全てを終わらせない事。ハイデガーの弟子に、ガダマーって哲学者が居るんですよ。そのガダマーが著書の「真理と方法」で曰く。

 

問いの本質は、可能性を開き、開いたまま保持する事である

 

流石師弟関係だけあって、ハイデガーの思想の影響をモロに受けている。ただ師匠と違って、ちゃんと解る言葉で書かれている。言葉遣いは影響を受けなくて良かった。

 

もう解ったぞ、となって問う事を止めた時、そこから先の可能性は閉じられる。ずげぇ乱暴な日常語に直すと、バカになる。バカは決して問う事をしない。というか問わなくなった時からバカが始まっていく。

 

自分は既に「知識を持っている」のだから、これ以上何を学ぶ必要があろうか、これ以上何を問うていく必要があろうか。しかし「知識を持っている(have)」は「知識である(be)」を意味しない。絶えず移り変わる現実世界において、知識は所持した途端に間違いになっていく。決して変わらないのは現実ならざる世界、数学や論理学といった形而上の世界だけです。現実存在である我々は現実の世界に生きている。

 

問う事を止めた時、あなたは現実存在ではなく、固定されて決して変化しない概念の世界に旅立つ事になります。

 

何かを知るには、その何かに向かって問い続けなければいけない。そして自分を知るには絶えず自分に向かって問い続けなければならない。その為の問いが冒頭の問いです。

 

今の私は、あるべき私であるか?」

 

この時点で、「成程、確かにその問いが必要だな!」と納得できる読者が居るとも思えないので、解説はもうちょっとだけ続くんじゃよ。因みに、解説を聞けば納得できるなんて保証はどこにもない。そういうお話なんですよ今回は。

 

 

自己は、可能性と必然性の綜合である

 

さて、ここですっかり忘れているだろう、冒頭に述べた実存主義における自己の定義を思い出してみましょう。定義とは、通常「Aとは○○である」という形式で表現される。これって本質存在の「Aとは○○である」と全く同じ形式ですね。つまり定義を語ると言う事は本質存在に語ると同義であり、定義した途端に現実存在は現実存在ではない概念になってしまう。

 

この矛盾と葛藤を乗り越えようとし、言葉に出来ない物を強靭な力で強引に言葉の中へねじ込んだ実存主義の自己の定義が以下の通り。

 

「自己とは、自己となるべき、自己である」

 

一見、単なる同語反復で、何も言っていないに等しい。「リンゴはリンゴである」とか「机は机である」みたいに、何の説明にもなっていない。そもそもAという言葉を説明するのにAという言葉を使っちゃ駄目だろという、国語の問題レベルのお話だ。

 

しかしこれ、同語反復ではなく、それぞれ別の意味を持った言葉なのです。「自己」という言葉が3つ出ているが、それぞれに意味が違う。

 

例えばだ。

 

聞いた話によると、大阪では一人称が「おっさん」、二人称が「おっさん」、三人称が「あのおっさん」で通じるらしい。本当かどうかは知らぬ。これを使って例文を作ってみよう。

 

「あのおっさんが、おっさんを紹介して欲しいと、おっさんに頼んできた」

 

一見意味の無い同語反復に見えますが、一つ一つのおっさんの意味が違います。標準語に訳すと以下の通り。

 

「彼が、あなたを紹介して欲しいと、私に頼んできました」

 

こんな感じで、「自己」の意味を一つ一つ翻訳していけば、ちゃんと意味のある定義に変わりますよ。

 

「自己とは、自己となるべき、自己である」

 

まず最初の自己。これは、これから定義しようとしている現実存在としての自己を意味します。そもそもそれを定義しようという文章なのだから当然ですね。

 

次は2番目の「自己となるべき」の自己。自己となるべき、であり、まだなっていない。これから自己になろうとする可能性を秘めている可能性としての自己です。まだ現実にはなっていない自己である。

 

3番目の「自己である」の自己。これは可能性とは真逆で、既に確定されている自己。なるべくしてなった自己。必然的にそうならざるを得ない必然性としての自己を意味しています。

 

現実とは、可能性と必然性の綜合である、とキルケゴールはその著書「死に至る病」で述べた。綜合とは真逆で、ありとあらゆるものを細かく分析していった、近代の理性万能主義に対する明確なアンチテーゼですね。

 

この両者が綜合された時、自己は自己として存在できる。そしてこのどちらかが欠けている自己ならざる状態を、キルケゴールは絶望と呼びました。死に至る病とは絶望の事なのです。

 

「可能性の絶望」については、昔の記事でサラッと触れた事がありますね。可能性「だけ」があって、可能性を現実の物に導く必然性がないのであればその人は絶望しているのです。

 

逆に、必然性のみがあって可能性が殆どなかった場合も、自己は自己で居られず絶望の状態にある。こちら側は「必然性の絶望」と呼びます。

 

 

 

 

好きだから 選ぶ 選びながら 『私』になっていく

 

概念ではなく、現実のあなた。今のあなたが何故今のあなたになったのかは、可能性と必然性の綜合の結果です。・・・・・という説明で終わる訳にはいかない。この事をとても上手く表現している歌があるので紹介します。

 

 

アニメ「魔女の旅々」のOPテーマ「リテラチュア」

 

 

とてもいい歌です。透き通る様な歌声と、実際にキャラが歌っているかの如き表現力が良いのは勿論であるが、歌詞そのものが抜群に良い。リテラチュアの歌詞合作動画もあるので、コメント関係者ならこの曲を知っているって人も結構居るのではないでしょうか。残念ながら合作動画は1番のパートだけで終わってしまっている。1番の歌詞以降にも解説しておきたい歌詞があるのだ。

 

ここで引用したいのが、見出しにも書いてあるサビの歌詞。

 

好きだから 選ぶ 選びながら わーたーしーにー なーーーっていくーーーー

 

これは極めて実存主義的な歌詞であり、自己が可能性と必然性の綜合であるという事を、実に上手く表現している。選択する事によって、自己は自己となっていく。今のあなたは、過去の選択の総体です。

 

例えば、暇さえあればダンベル握りしめて筋トレする人生を「選んで」きたのか、暇になったらゴロゴロ寝っ転がってスマホを弄る生活を「選んで」きたのか。どちらを選ぶにせよ、その過去の選択の積み重ねが、今の自分の体を作っている。たっぷりのタンパク質と野菜を選んできたのか、砂糖菓子ばかり選んできたのかでも、全く別の自分が出来ている事でしょう。

 

あなたは常に、今この瞬間にも「選択」する事を現実世界から強いられている。一瞬の休みも無く。仮に何も選択しなかったとしても、それは「選択しない」という選択した事に他ならない。世の中には無数の選択肢がありながら、今回、俺の記事を選んで頂きありがとうございます。

 

彫刻家が石を掘る時、ノミをトンカチで一打一打少しづつ打ちながら像を形作っていくかの如く、我々も今まで積み重ねて来た一つ一つの選択が、自己という像を形作っていく。過去の選択の全てが今のあなたを形作り、今とこれからの選択が未来のあなたを形作る。

 

 

資質

 

 

自己とは、選びながら私に「なっていく」というプロセスなのです。このプロセスは死ぬまで終わりません。彫刻の様に、ここまでやったらもう完成、という事はないのです。サグラダ・ファミリア教会の如く、今この瞬間も「私」を形作っている真っ最中です。

 

自分を形作る選択というと、どの会社に入社するかとか、この人と結婚するべきかどうかみたいに、ライフスタイルそのものが根底から覆される人生の一大決心を思い浮かべる人が居るかもしれません。しかし、人生の一大決心から日常の些末な選択に至るまでの全てが、あなたを形作ってきたし、これからも形作り続ける。

 

「いかなる自分にもなりえる」という可能性と、「なるようにしかならない」という必然性のせめぎあい。その総体が今のあなたです。

 

アニメ「魔女の旅々」の最終回は、そういう極めて実存主義的な話でした。最終回は、16人の「私」が登場する。これまでの旅で、今の私とは違う「あっちの選択肢」を選んでいたら私はどうなっていたのか。そのどれもが、私がなりうる私だったというお話。

 

この記事も、一気に集中して正月休み内にきっちり書き終え、優雅に正月を過ごす「俺」という存在が存在する可能性あるにはあった。しかし俺は、ダラダラ酒飲んだり、ダラダラウマ娘をやるという選択ばかりをした結果、こうして9月になっても夏休みの宿題をやっている小学生の如き「俺」が現実に存在している。

 

因みに魔女の旅々の最終回を見た時、俺はすぐにハンサムケンヤの「これくらいで歌う」という映像作品を思い浮かべました。俺が今まで長々解説していた内容を、僅か6分程度の映像で見事に表現している。

 

 

 

ここにも沢山の「僕」が登場してくる。そのどれもが、現実に存在しうる可能性を秘めた「僕」の姿だ。ギターを弾く僕、ドラムを叩く僕、ヴァイオリンを弾く僕、ベースを弾く僕、天井を見上げる僕。そして「僕」は常に周囲の環境から、世界から選択を迫られ続ける。どの選択肢を選ぶのかで「僕」は常に分岐し続ける。そのどれもが、「僕」のあり得る姿だ。

 

哲学者が延々と言葉を紡いでようやく説明できる内容を、詩人は一言に凝縮し、映像作家は映像で示す。クリエイターの凄さをまざまざと見せつけられる結果になりましたわ。上記の内容を、ハイデガーが文章で説明するとどうなるか。お馴染み「存在と時間」からの引用。

 

 

「現存在はじぶん自身を常に自らの実存から、つまり、じぶん自身であるか、じぶん自身ではないかという、みずから自身の可能性から理解している。こうした可能性を、現存在は自身でえらんだか、あるいはその可能性のうちへと入り込んでしまっているか、あるいはまたそのつどすでに、その可能性のなかで育まれてきたか、のいずれかである。実存は、それをつかみ取り、あるいはつかみ損ねるという様式で、そのときどきの現存在によってだけ決定される」

 

 

とまあ、こんな感じ。言っている内容は「魔女の旅々」やハンサムケンヤの「これくらいで歌う」が表現している内容と同じなんですよ。もしもあなたが、いきなりハイデガーの引用を突き付けられたとしたら、何一つ内容は伝わってこなかったでしょう。

 

でも、こんな記事をこんな所まで読んできた今のあなたなら、何となくであれ言わんとする事は伝わっているのではないでしょうか。記事を読む前のあなたと「今、ここ」に存在しているあなたは変化していてもう別人なのですから。いや、全然解らんというのであれば、俺のコミュニケーション不足ですわ。すまぬ。

 

引用の最後の一節。「実存は、それをつかみ取り、あるいはつかみ損ねるという様式で、そのときどきの現存在によってだけ決定される」が、上記2つの作品で見事に表現されている箇所ですね。上記の作品から色々伝わっているのであれば、ちゃんとこの引用の言わんとしている事も理解できているので大丈夫です。一応翻訳するのであれば、以下の様な感じになります。

 

 

 

概念ではない現実存在の自己は、何によって自己であると決定されるのか。それは、その瞬間瞬間の「今ここ」の自分によって決定される。「今ここ」の自分が、現実世界から突き付けられている可能性の中から一つを選択し、見事に可能性をつかみ取る、もしくは掴み損ねるという結果によって、現実存在としての自己が形作られていく。

 

 

とまあ、こんな感じ。

 

哲学者というのは、本当にメンドクサイ生き物である。こういう振る舞いについては、同じく哲学者であるヒルティが、その著書「幸福論」の中で痛烈に批判していますけれども。

 

「哲学には、自分勝手に発明されたおびただしい術語があって、これが通り抜ける事が出来ない垣根の様に、普通の人間の理解力や言語能力の領域から哲学を遮断している」

 

おい、ちゃんと聞いてっかハイデガー。哲学者ってすげぇいい事いっぱい言ってますけど、普通の人々に全然届いていない訳ですよ。まあ、だからこそ作品で表現できるクリエイターや、俺みたいに普通の人に向かって翻訳する人間が存在できる訳ですけれでも。

 

さてさてさてさて。

 

ここまで延々と、現実存在の自己、について語ってきました。過去に様々な選択をし、今この瞬間も選択を迫られている総体が自己であると。朧気ながらも、自己紹介するべき「自己」や、自己表現すべき「自己」が見えて来たでしょうか。

 

ここから先は、その見出した自己を世界に向かって出していく具体的な方法論について解説していきましょか。

 

 

「何故(why)」を語ると人となりが見えてくる

 

今までどの様な選択をしてきたのか。つまり何を(what)をやってきたのかで「あなた」という存在が形作られる。そして「何を」と言うのは、とても明確で解り易い。誰であっても、見れば解るってレベルで解る。なのでパパッと「自己」紹介をする時は、今まで自分がやってきた事を羅列して紹介するのが最も楽で手っ取り早い。

 

皆の自己紹介も、今まで「何を」作ってきたを紹介しているのがメインでしたね。ただそれって、別に「あなた」じゃない人でも出来るのですよ。ひょっとしたら、あなたがあなたを紹介するよりも、monmonさんがあなたを紹介した方がより詳細に解説出来る可能性すらある。「何を」というのは、誰でも見れば解りますからね。

 

次はどの様にして(how)作ったのか。こちらは見れば解るとは限らない。ある程度の専門知識が必要とされる。門外漢にはどうやって作ったのか未知の技術でしかないが、見る人が見れば、どんなツールを使っているだとか、○○式と呼ばれる技法を使っているとか、どの様にして作ったのか見抜く事すら可能。そういう達人同士の見抜きあいを眺めるのは楽しいですわ閑話休題。

 

しかし、何故(why)その作品を作ったのか。これはあなたにしか解らないし、あなたにしか紹介できない。そして「あなた」という自己が最も出てくるのが、この「何故」の部分です。これによってあなたという存在が、どういう人間なのかが良く伝わってくる。文章を通して、あなたの表情も見えてくる。あなたの人間性はこの「何故」に最も反映されています。

 

例えば、匿名イベントは皆全く同じ題材で作りますよね。「何を」を作るのかは皆同じだ。しかし「何故」参加して作ったのかは、1人1人違うはずだし、そこにその人らしさが最も現れる。

 

 

みんなでワイワイするのが好きだから参加したのか?

自分の実力を見せつけるいい機会だから参加したのか?

みんなをビックリさせるのが好きだから?

負けたくないライバルが居るから?

承認欲求を満たさないと生きていけないから?

開発したばかりの新技術をお披露目したかったから?

なんか周りの勢いに流されたから?

イベント企画者に恩義があるから?

お題に自分の推しキャラが居たから?

定期的に作品アップしないとネットでの居場所がなくなるから?

お祭り男の血が騒いで止められなかったから?

イベントには絶対に参加すると決めているから?

する事がなくてヒマだったから?

自分を成長させるのにいい環境だから?

自分の作風はみんなに認知されているのか知りたかったから?

 

 

 

ほら。理由次第で、その人がどういう人間なのか全然違って見えてくるでしょう。その人が何を大切に思い、何を目指し、何を欲しがっているのか。それらは「何故」から見えてくる。

 

何を選択し、どんな行動をしてきたかによって自己が形成される。そして人が行動を起こすのは「何故」によってだ。何故やるのかという動機が無いと人は動かない。故に、あなたという存在を形作ったのはこの「何故」に集約される。自己紹介をする時「何故」それをやったのか? 数多くある道の内「何故」わざわざその道を選んだのか? それを出せば出す程に「あなた」という自己が見えてくる。「何を」をどれだけ語ってみても、表面的な理解しかできない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何を求めているか」だけを語る自己紹介例

 

 

 

 

「何故求めているか」まで語る自己紹介例

 

 

ハンターハンターから、レオリオとクラピカのワンシーンですね。レオリオが「何を」欲しがっているかというと、それは一貫して金金金。けれども、「何故」金が欲しいのかという理由を聞いた後は印象がガラッと変わりますね。

 

その印象の変化は、クラピカの表情で見事に描写されている。「何を」しか聞いていない時のクラピカは目を瞑り「見るに堪えない下賤な輩」として扱っている。

 

しかし「何故」金が欲しいのかを聞いた後は、あれほど見下していたレオリオを、自分よりも「高貴」で「高潔」な人間なのかもしれないと、見上げる描写に変化している。下から上への描写の変化。

 

別に、人が尊敬する様な立派な動機を語れという訳ではないですよ。下らなかったり、些細な拘りだったり、他人にとってはしょうもない動機であっても構いません。ただ「何故」やったのかという動機を語れば語る程、あなたという人間がどういう人間なのかが良く見えて、面白い自己紹介になっていきます。

 

自分の事を曖昧に、霞がかかったかの様にボンヤリとしか認識していない。あなたがあなたの事をボンヤリとしか認識できていないのであれば、あなたの自己紹介を聞いた人もボンヤリとしかあなたの事を認識できない事でしょう。知らない物を他人に紹介する事はできないのです。自己との対話が苦痛で避けていたのであれば、今一度真剣に取り組んでみる価値はあります。その苦痛に対する見返りは絶大だ。

 

何故あなたはコメント職人の世界に足を踏み入れたのか?

 

「○○の動画を見たから」という理由が結構多かったですが、これだけでは浅いです。「何を」見たのかしか語っていません。動画を見ただけで動画の世界に足を踏み入れるのであれば、あなたは「魔女の旅々」や「これくらいで歌う」以上に、無数の「あなた」が存在していた可能性がある。

 

ゲーム実況者の「あなた」 ボカロPの「あなた」 MAD製作者の「あなた」 アニメーターの「あなた」 ゆっくり解説動画製作者の「あなた」 イラストレーターの「あなた」 Vtuberの「あなた」 料理動画を投稿する「あなた」 車載動画を投稿する「あなた」 各種まとめ動画をアップする「あなた」etc.etc.

 

しかしよりにもよってあなたが選んだのは、コメント職人の「あなた」なんです。他の可能性をごっそり削ぎ落して、この道を選ぶ事になった必然性は何ですか? 「何故」わざわざこんなマイナーな世界に自分の意思で選んで、自分の足で踏み入れる事になったのか?

 

これを語れる様になるだけで、あなたの存在がかなりユニークネスな物として伝わっていきますよ。

 

流行物に飛びつくのであれば、一々説明しなくても理解できるじゃないですか。大手youtuberになりたいとか、ゲーム実況者になりいとか。もしくは、金をガッポガッポ稼げる会社に入りたいとかも、説明せずとも理解できる。あるいは、銃を突きつけられて言う事を聞かないと殺すとか言われて従うのも解る。

 

しかしコメンアートって、全然流行っていないし、儲からないし、誰にも強制されていないし、むしろ勉強もせずにそんな事ばっかりやってと怒られる代物ですよ。

 

流行のアニメや動画を「履修」しないとクラスの会話についていけないから見るというのも理解できる。しかし、コメントアートをクラスメイトや職場の同僚と語って盛り上がるなんて事はまずないし、そんな話をしたら多分浮く。

 

コメントアートを見たニコ厨は、何万人何十万人と存在しています。しかしその中から実際にやってみようと決意し、形になるまでやり続ける人間なんて、全体から見れば雀の涙程しか存在しない希少種です。いまこうして、「コメ職人のあなた」が存在している事自体が、まともな人からはかけ離れたユニークネスを体現している。大多数の人がまずしないであろう選択をした結果、こんなブログのこんな記事を読んでいる今のあなたが居る。

 

そして「何故」あなたがこの世界に足を踏み入れたのかを説明できるのは、この世にあなた一人だけです。他の人でも、あなたが「何を」「どのように」やったのかは説明できます。しかし「何故」については、あなたが世に出さない限り、誰もそのユニークネスさを知る事はできません。それはあなたにしか書く事の出来ない記事です。おもしれー人生を歩んできたおもしれー人間なら、口を開くだけでおもしれー物になるでしょうが、そこまで異様な人生でなくても、しっかりと「あなた」を押し出せば、充分面白い記事になりますよ。

 

何故なら、その様にして書かれた文章には実存があるから。もっと解り易い日常語に直すのであれば、そこにはあなたの魂が宿っているから。

 

ゴールデンサークル(why → how → what)

 

仏作って魂入れず。それで終わるのは実に勿体無い。では、魂を入れるノウハウを書いていきましょう。なんか胡散臭ぇスピリチュアルセミナーみたいな文言になってますが、内容は極めてクソマジメです。

 

TEDで人気の動画に、サイモンシネックの「優れたリーダーはどうやって行動を促すか」というのがある。今確認してみたら、再生数が6300万になってた。見た事がある人が居るかもしれません。18分の動画なので、要点を掻い摘んで説明していきます。自分で視たい方はこちらをどうぞ。

 

 

俺はリーダーじゃないからこんな動画は関係ない、って人にも役立ちますよ。あらゆる領域に応用自在ですから。サイモンシネックは、沢山の優れたリーダーを研究し続けた結果、とある共通点に気が付きました。それは、特に優れているわけではない我々凡人とは真逆の振る舞いだ。

 

これを理解するにあたって必要になってくるのが、以下のゴールデンサークルと名付けた図。

 

 

 

 

 

我々凡人が何かを語る時は、このサークルの外から内へ向けて(what → how → why)語っていく。何なら外側ばかりに終始し、中央のwhyにまで辿り着かない場合が殆どだ。掘り下げが足りない。

 

その逆に、優れたリーダー達は内から外へ向けて(why → how → what)語り掛ける。whatというのは誰が見ても明らかで解り易いが、そんな解り易くて簡単な説明は最後の最後だ。whatやhowを生み出す根幹となる、whyから開始する。

 

動画ではアップルを例にとりあげていた。もしもアップルが優れたリーダーとは真逆のありきたりなリーダーだったら、どんなCMを作るか。

 

「我々のコンピューターは素晴らしく(what)、美しいデザインで簡単に使えユーザーフレンドリー(how)。ひとついかがですか?」

 

いりません。巷に溢れかえった広告ですね。我々の賞品はこんなに素晴らしいんだと、「何を」作ったのか「どんな」商品なのかばかりを説明する。だから煩わしく感じる。しかしアップルだったら、以下の様に商品を紹介するか。

 

「我々のする事は全て、世界を変えるという信念で行っています。違う考え方に価値があると信じています(why)。私達が世界を変える手段は美しくデザインされ、使いやすくてユーザーフレンドリーな製品です(how)。こうして素晴らしいコンピューターが誕生しました(what)」

 

おひとついかが? アップル信者でない俺もちょっと欲しくなってきた。何故ちょっとなのかというと、俺個人はそこまでアップルの理念に共感していないから。しかし逆に、就職活動のテンプレになりがちな「御社の理念に共感しました」というのを口先ではなく本気で発している人々が、アップル信者となりアップル新製品の発売日前日には徹夜で並んで購入する事になる。

 

現代だと、信者ではなく「推し」と言った方が伝わるかもしれん。

 

誰でもいい、ではなく、この人でなくては嫌だ。どんな企業でもいい、ではなく、この企業じゃないと嫌だ、という推しがあるのであれば、じっくり観察してみて下さい。そこには、あなたの理念や理想に訴えかけて共感を生む、強いwhyが体現されているはずです。ここで大事なのは体現しているかどうか、背中で語っているかどうかです。このwhyは口先で誤魔化せない。テクニックでどうにかなるのはwhatやhowまでです。

 

あなた自身の生き方、行動基準となっているwhyが、多くの人に共感されるかどうかは解らない。動画で紹介されているジョブズやライト兄弟やキング牧師並の共感を生めたとしたら、それは歴史に残るレベルの偉業だし。

 

ただしどんなwhyに従って生きているのであれ、それを嘘偽りなく表明できたのでれば、そのwhyに共感する人間は一定数必ず現れてくる。そして仮に共感しない相手であっても、表明する意義は充分にある。何故なら、whyを表明する事によって、相手はあなたの事を概念ではなく現実に生きている血の通った存在として認識するから。「本質存在」のあなたではなく、「現実存在」のあなたに触れる事ができる。これがないと、あなたの事を属性という概念でしか理解できない。

 

「人間」「男 or 女」「ナウなヤング or おっさん」「新参 or 古参」「○○系のコメ職人」みたいなカテゴリーによる超大雑把な理解ですよ。どこにでもありふれた「お星さまの引き立て役Bです」みたいに、その人の表情が見えてこない。現実世界のどこにも存在しない概念の集合体だ。そこにあなたの実存はない。

 

自分の中のwhyをしっかり見出しているという前提であるが、ゴールデンサークルに従って内から外に展開していけば、同じメッセージであっても相手の心にあなたの存在を強く訴えかける事が可能になります。

 

良い例文かどうかは解りませんが、仮に俺が合作の企画を立ち上げ、募集メッセージを書くとしたらこんな感じになる。

 

 

凡人の募集メッセージ(外から内へ)

歌詞合作をやりましょう! ディスコードを使いみんなでアイディアを出しながら、切磋琢磨して一人では作れない作品を作りたい。きっと楽しいと思うので、参加者募集しています!

 

 

 

あなたもいかが? いやちょっと今回は・・・・・。

自分で書いおきながらなんだが、全く心に響きませんね。合作を独りで作り上げる未来しか見えねぇ。けど「たとえ俺独りになっても絶対に完成させるんだ!」という決意と覚悟を見せつける事が出来れば人は集まってくるので、完成間際になるにつれて一応人は集まってくるでしょう。でもそれって、あくまでも背中で語ったメッセージであり、募集メッセージに惹かれて集まった訳ではありませんね。それだったら最初っから背中で語るメッセージを出せばいいし、それが以下の例文。

 

 

 

優れたリーダーの募集メッセージ(内から外へ)

 

私が作る歌詞作品は「言葉と文字はこんなにも美しい」という理念の元に制作されています。多くの人が「コメ職人」という概念を聞いて思い浮かべるのは、組曲やツイッターに代表される絵系の花形コメ職人であり、歌詞職人というのは地味で下位の存在だと認識している事でしょう。

 

が、私は決してそうは思わない。我々歌詞職人には、CA職人には決して表現できない美しい世界を表現できる。文字は、ただそこにあるだけで美しい。そして文字を紡いで言葉を編めば、言葉によって想起された「鮮明な映像」を視聴者の脳内に映し出す事すら可能。

 

記号を自在に操るのがCA職人という存在であるならば、文字を自在に操るのが我々歌詞職人という存在である。今一度、我々歌詞職人の存在を世に問うてみませんか?

 

その為には、私一人では力不足です。あなたの協力が必要不可欠。今私が制作している歌詞動画に、合作参加者として参加してみませんか? 共に歩める同志を、心から待ち望んでいます。

 

 

 

 

 

うおぉぉぉ、これなら魂を揺さぶられるわ(自画自賛)。俺の価値観、理念をガンガン打ち出しているので「御社の理念に共感しました」レベルの共感ではない。勿論価値観が違いすぎて、ピクリとも反応しない人が殆どでしょう。

 

しかし、近い価値観に従って生きている人には、行動を促す強力なメッセージになる。何なら、俺の事を全く知らない人ですら合作に申し込んでくるかもしれないし、一度も歌詞に挑戦した事が無い人ですら歌詞に挑戦してみたいとなる可能性まである。

 

ゴールデンサークルの内から外へというテクニック。ただしテクニックで補えるのはここまでだ。自身の価値観・理念がぼやけていたり、自分に嘘を付いている場合は、どんなにテクニックを駆使しても効果は無い。上の俺のメッセージがどれだけあなたの心に響くかは、俺がどれだけ理念や価値観と言ったwhyを体現できているかにかかっている。これは口先小手先では絶対にごまかせない。実存に関する問題は、実存する事によってのみ、決着が付けられなくてはいけないのです。

 

ちなみに、そんな理念に従って作った俺の歌詞がここにあるのですが、おひとついかが?

 

「言葉と文字は、こんなにも美しい」

 

 

バッチリ宣伝が決まりましたね。

 

俺が「何故」歌詞を作るのかという理念を表明出来た事ですし、理念を体現した作品も紹介したし、これをもって自己紹介記事の代わりとさせて頂きます。今回の記事は、「自己紹介」と「コメ哲」の豪華二本立てですね!

 

 

 

主人公になれていますか?

 

さてさてさてさて。

 

ここまで、実存的に生きて自己を見出す事と、その見出した自己を世に表明するノウハウについて述べてきました。これであなたが面白い自己紹介を書ける様になれば、今回の記事は大成功ですね。

 

今回は自己紹介という文脈にそって書いてきましたが、別に自己紹介の為だけの知識ではありません。それが最後のメッセージである「主人公になれていますか?」です。

 

自らが大切にしている価値観・理念・行動基準に従って生きる事、つまり実存的に生きるとその瞬間からあなたは物語の主人公になれます。何の物語の主人公かって? 「あなたという物語(リテラチュア)」の主人公です。

 

 

 

ここで再び登場する、極めて実存的な歌詞で構成された「リテラチュア」

 

 

この歌詞の一節が、見出しにも書いた「主人公にーなれてーいまーすーーかーーー」です。思わずハッとして顔を上げる事になってしまう一言だった。

 

数ある主人公の条件の一つは、自身の価値観や理念から導き出される強い目的意識だ。主人公には必ず強い目的がある。

 

「海賊王に、俺はなる!!」

 

「僕は新世界の神になる」

 

「全ての巨人を一匹残らず駆逐する!」

 

「俺は親父に会いに行く」

 

「オラ、もっともっと強ぇ奴と闘いてぇ」etc.

 

これらが無い人間は主人公にはなれないし、読んでて実につまらないストーリーになる事であろう。ストーリー製作の原則は「コップ一杯の水でいいから、主人公には何かを欲しがらせろ」だ。

 

「自分で」進むべき道を選択し、目的地に向かって歩き続けるのが主人公という存在です。もしもあなたが進むべき道を自分の価値観に従って選び、その道を進み始めたのであればその瞬間からあなたは物語の主人公になる。

 

好きな物を好きと言えず、嫌いな物を嫌いと言えず、自分を殺し、他人の価値観に従って他人の決めた道を進んでいる間は、あなたは他人の物語のモブキャラAです。尤もそれは、とても楽で快適な生き方でもある。でもその先に待ち構えているのは、生きているという実感がまるで湧かない世界です。この生きている意味が全く感じられない状態の事を、精神科医のV・E・フランクルは「実存的空虚」と呼びました。

 

この実存的空虚の最も解り易い例が、エヴァのシンジ君ですね。

 

普通ロボットアニメの主人公と言ったら、俺が世界を守ってやるぜという使命感に燃える暑苦しい程に熱い主人公ばかりですが、シンジ君はそうではない。今まさに、人類の命運をかけた戦闘の真っ最中に、死んだ魚の様な目をしながら「何で僕なんだ・・・・・?」という空虚感に襲われている。理由も解らず、ただ周囲の大人たちに流されているだけの存在。

 

人類を守るとか、世界を救うとか言われても、実感がまるで湧かないのは当然っちゃ当然ではある。「人類」も「世界」も、現実世界の何処にも存在しない単なる概念ですから。本質存在と現実存在をゴッチャにして、同列の物として思考している。存在しない物を守る事なんて出来ないのですよ。

 

しかしシンジ君は、主人公と呼べるまでに成長していく。自分の意思で、「綾波だけは絶対に助ける」や「トウジやケンスケや加持君のいる村を守る」と決意する。それは自分にしか出来ない事であり、自分がやらなくちゃいけない事だから。

 

「人類」だの「世界」だのと言ったものを救う事はできないが、現実存在である綾波達は救う事が出来るし救わなくてはいけない。現実世界を生きる事を決意したシン・エヴァのシンジ君は、最早ワンコ君ではなく大人の顔つきになっていた。実にいい顔だ。実存的空虚を克服して、自分が生きる意味を見出した主人公の顔である。

 

ある人が主人公として生きているか、モブキャラAとして生きているかは、その人の言葉遣いを観察すれば大体解ります。主人公は「能動態」の言葉遣いを多用し、モブキャラAは「受動態」の言葉遣いを多用します。

 

モブキャラAが語る言葉は、学校に行か「されて」いる、仕事を「させられて」いる、誰かに裏切「られる」、先生に怒「られる」etc.

自分でその道を選択したという自覚と責任感がまるでなく、被害者や傍観者の立場であり、「自分の」人生を生きていない。他人の人生を生か「されて」いるのだ。こういう人間に魅力は感じませんね。周囲の大人に流されるだけのシンジ君みたいに。

 

それに対して主人公は、能動態で自身の行動を表す。自身の価値観に従った行動を自分で選択し、他の誰でもない自分の人生を生きている。そういう生き方をしている主人公に対して、人は興味と関心を抱きます。今までどんな人生を送ってきたのか、これからどんな人生を歩んでどんな結末を迎えるのか。それを知りたいから、人は物語の続きを読みたくなるのですよ。

 

他人が選んだ道を進み、他人の物語のモブキャラAである事は楽で快適です。ですがそれでは満足できず「何か違うんだよな・・・・・・」と魂が叫びだすのであれば、あなたは「自己」表現する側の人間であり、「自己」実現する側の人間です。これ以上自分を押し殺すのは辞めて、主人公として生きてみませんか。

 

 

 

 

そしてこの「なんか違うんだよな・・・・・」という魂の叫びが聞こえた時に、進むべき道に軌道修正する自問が冒頭に述べた問いなのです。

 

 

「今の私は、あるべき私であるか?」

 

 

今回の記事で最重要なメッセージはこの自問です。NOという答えが返って来るのであれば、それはあなたが選ぶべき道ではない。逆に、魂がここが良いと叫ぶのであれば、それがどんな道であれあなたにとっての正解です。あなたはあなたの人生の主人公になる。

 

世の中、自分の意思で自分の道を選べる事ばかりではない。自分の意思とは無関係に、やらなきゃいけない事が多々あり、やりたくなくてもやら「される」。

 

けれども、あなたがコメント職人の世界に足を踏み入れた事は、間違いなく誰にも強制されず、自分の意思で、自分の価値観に従った結果であったはずです。ひょっとしたら、あなたの人生は周囲の人間に流されてばかりのモブキャラだったかもしれません。しかし、少なくともコメント職人の世界においては、あなたは間違いなく主人公なのです。

 

 

何故自分はコメント職人の世界に足を踏み入れたのか?

何故自分はこの作品を作ったのか?

この世界で何を思い、何を感じ、誰に出会ったのか?

もっとも心揺さぶられた出来事は何か?

 

 

それらあなたの実存を込めた自己紹介は、魂を込めた物語は、他の誰に書けない最高に面白いリテラチュアになりますよ。

 

 

 

 

 

 

 

今のあなたは、主人公になれていますか?

 

 

 

 

そんなこんなで今回の記事はこれにて終了。

 

それでは、次回の記事までごきげんよう。

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