今回掘り下げていくのが、HDAさんのこちらの記事に書かれた一文。
【CA歌詞感想vol.3】詩犬さん『ワールドコーリングPV投コメ歌詞』編
「いい歌詞作品は皆そうですが、しっかりとルールを決めて創作しています。」
この言葉を根掘り葉掘り隅々までまさぐる様にグヘヘヘと追求して考えていきましょう。考えるも何も、発言したHDAさん本人が居るのだから、本人に直接「これってどういう意味なんですか?」と訊けばいいのだろう。しかしそれは哲学的な態度ではない。
ゲーテの戯曲ファウストに曰く、「汝の祖父が遺せし遺産を、自分の物とすべく自ら獲得せよ」だ。あぶく銭は身に付かないんです。手に入れる為に自力で足掻くプロセスが大事。特に現代の様に、グーグル先生やAIに尋ねれば10秒以内に回答が用意される時代においては。
まずは自力で考える。然る後に他者の解答を聴いて比較するショウペンハウエル方式でやっていきます。ドイツの偏屈な哲学者ショウペンハウエル曰く、「他人に考えて貰えば貰う程、自力で考える力は衰えていく」のですから。
ちなみに今回の記事を読んでも、それでスラスラ歌詞が作れる様になる訳ではありません。圧倒的なソリューションを提供するどころか、「お前がソリューションになるんだよっ!」と自助努力を促す内容になる予定です。創作をするのに必要なルールを自分で創作する所から始めなくてはいけない。この記事があなたの役に立つかどうかの保証はできませんが、多分勉強にはなると思います。
そんなこんなで本編に入っていきましょか。
無限の時間を与えられた猿はシェイクスピアの戯曲を生み出すか?
多くの人は、クリエイターという存在に幻想を抱いている節がある。クリエイターと聞くと、むしろルールを破る側であり、既存の枠に捕らわれず型破りで、「フィーリングに従い、感性の赴くままに手を動かせばそれで作品は完成さHAHAHAHA」的な人間を想像するのではなかろうか。いや、俺は人とあまり話さないから、多くの人がどんなイメージもっているのか詳しくは知らないけれども。
確かにそんな無軌道なやり方でも作品を創る事は出来るでしょうが、作品を創り続ける事はできません。しかるをいわんや「良い作品」を作るに至ってや。
この事を考えるにあたって参考となるのが、「無限の猿定理」と呼ばれる思考実験だ。猿が文字を書く事はできないが、タイプライターやパソコンのキーボード叩いて文字を出力する事なら出来る。
試しに今、サルになりきってキーボードを適当に叩いたら、こんな文字列が出力された。
「anfao,cmoirhg vvm,rykitmcaglro4u09utg4」
まあ、見ての通り何の意味も無い文字列ですね。しかしこれをずっと繰り返し続ければ、そのうち「apple」や「tree」などの意味ある単語が出力される可能性はゼロではない。「this is a pen」の様に、複数の単語を組み合わせた文章が出力されるかもしれん。なんならシェイクスピアの戯曲と一言一句同じ文字列が出力される可能性もある。
猿と言えども、無限に時間を用意して、無限にランダムなタイピングを続ければ、理論上はどんな文字列でも「殆ど確実に」できあがる。これが無限の猿定理です。
「何も考えず、勝手に手を動かしていたら、大ヒットする名作ができちゃいましたHAHAHAHAHA」となる可能性は、一応ゼロではないのですよ。
この記事の文章は俺が書いているのではなく、ひょっとしたら猫が打ち込んでいるかもしれませんよ。パソコンのキーボードってのは、人間が叩いても猫が歩いても同じ文字を出力する。猫でも文字を出力する事は可能なのです。
@猫 キーボード乗るのやめて #配生https://t.co/uuIHAP849h pic.twitter.com/7aBSxOJzMe
— ・M・(まー) (@x_0227) October 9, 2021
しかし、この記事を猫が書いたと信じる人は居ないでしょう。それが普通です。文字だけならまだしも、単語や文章まで作れる訳がない。
またまた思考実験です。
仮に100歩譲って、猫が意味ある文章を出力したとしましょう。しかしその場合は、なんらかの「強い拘束」があると疑うのが自然でしょう。
強い拘束とは何か?
例えば、キーボードに仕掛けが施されていて、指定した文字盤を順番通りに押さないと無反応になる仕組みになっているとか。
あるいは、指定された文字盤がピカピカ光って、猫じゃらしをパンチする要領で、光っている文字盤をパンチする様に猫を調教しているとか。
もしくは、予測変換が組み込まれており、一文字入力するだけで意味の有る単語や文章が自動的に出力される様になっているとか。
完全なランダムではなく、「こうしなくてはいけない」と、他の選択肢をごっそりとそぎ落とす物。エラーをエラーだと判別し、それを消去する仕組み。それが「強い拘束」です。他の可能性を悉く潰し、そこに至る必然性を生みだす。強い拘束があれば、猫でも意味の有る文章を生み出す事は可能。ジグソーパズルのピースの形や絵柄は、それが正解以外の可能性を削ぎ落す強い拘束になっているから、正しい絵を完成させる事ができる。
HDAさんの言う「しっかりと定められたルール」とは、この「強い拘束」を言い換えた物になります。なります・・・・と断言したはいいものの、これはHDAさん本人が言った訳ではなく、俺が勝手に読み解いた結果ですけれども。
もしもHDAさんが「脳内に浮かんだ単語を思いつくままに並べたら記事ができちゃいましたHAHAHAHAHA」という人間だったら読み解くもクソも無いが、HDAさんはちゃんと強い拘束に従って思考し、強い拘束に従って文章を書いているので、読み解きはそこまで的外れになっていないと思う。HDAさんが自分を縛ることに快感を覚える歪んだ性癖の持ち主で良かった。
しっかりと定められたルール無くして、作品を創る事は出来ません。それは猿がシェイクスピアの戯曲を生み出すくらいありえない。次からはこの点を掘り下げていきましょう。
「可能性の絶望」は必然性の欠如に由来する
俺は今でこそ、こうやっていくらでも文章を書けますが、小学生時代に一番苦手で吐き気を催す程の嫌悪感を抱いていたのが「作文」の授業です。
タイトルと名前だけ書いて、後は一行も書けずにチャイムが鳴るまで見慣れた天井ポケーっと眺め続けるだけの日々。誇張表現でなく一行も書けない。俺の小学校では毎年全校児童の書いた作文をまとめた文集を作る事になっていた。先生に指導されても一向に書ける様にならず、文集にはゴーストライターと化した先生が俺の代わりに執筆し、「まるで大人が書いたみたいだ」という評判を得ていた始末。
作文が得意なクラスメイトにアドバイスに求めると「思った事をそのまま書けばいいのよ」という、天才特有の何の方法も伝わらない方法論を教えられた。
書けたのはタイトルと名前だけな訳だが、なぜその2つは書けたのかというと、それだけが俺の知っている作文のルールだったからだ。
ルール1 「1行目にはタイトルを書く」
ルール2 「2行目には自分の名前を書く(ただし苗字と名前の間は1文字空ける事)」
以上。
こうしなくてはいけない、これをやってはいけない、というルールがあったからこそ、それに従って書く事が出来た。しかし本文については一切のルール知らなかったので、何も出来ずに立ち往生していた訳だ。
文章には厳密なルールがある。適当に文字や単語を並べただけの物は文章ではない。それら文章のルールを知り、拘束が増えれば増える程、何をどの様に書くべきなのかは明確になっていきました。
歌詞でも、全く同様の事が当てはまります。
絵系CAをバリバリ作りまくる技術の持ち主でも、歌詞になると途端に何をしたらいいのか解らなくなるという人はそれなりに居ます。あるいは、映像の有る動画ならスラスラ歌詞を作れるけど、黒画面の歌詞は全く作れない歌詞職人も居る。
歌詞職人が絵系CAを作れないのは、単純に技術が足りなかったり作り方を知らない事が原因です。しかし絵系CAを作れる人が歌詞を作れないのは、技術的な問題ではないのです。歌詞に必要な技術は絵系CAの技術に全て含まれている。というかそもそも歌詞を作るのに技術はそこまで必要ではありません。その実例として、技術はないけど迸る熱いパトスだけで歌詞を投下している職人の姿を、いくらでも見た事があるでしょう。
必要な技術は備えているし、歌詞を作ろうと言う意欲もあるのに作れない。何も禁止されてないし、どんな事でも自由にやってよいはずなのに立ち往生してしまう。いうなればこれは、作文用紙にタイトルと名前だけ書いて、途方に暮れていた小学生時代の俺と同じ状態です。
一体何をしたらいいの?
何をやってもいい無限の可能性の前で、無限に途方に暮れていた。
この状態を理解するのに役立つ例え話が「ピュリダンのロバ」の話です。ピュリダンのロバってのはどんな話かというとだ。
ここにお腹を空かせたロバが居ます。
まず右の道に、餌が置いてある。
そして左の道に、全く同じ距離で、全く同じ量の餌が並んでいる。
さて、このロバはどちらの道を選ぶのかというと、どちらも選べずその場で餓死する。
めでたしめでたし。
この話を聞いて「ロバってバカだなぁ」で終わってはいけない。これはロバの話では無いし、ましてやメルヘンの話でもありません。「現実の」「人間」について語られているお話なのです。
これは長々文字で説明するよりも、一発で解る凄い見事な動画があります。カナダのドッキリ番組なのですが、ここでイタズラを仕掛けれたターゲットは何も出来ず、その場で立ち往生する事になる。本当に、ロバと同じ状態になりますよ。もしも自分がこのイタズラを仕掛けられたら何が出来るか考えながら見て下さい。多分、聡明なあなたでもロバの様に立ち尽くす事になると思います。
以下の動画の「04:56」地点からが、まさにピュリダンのロバの具体例です。
これほど見事にピュリダンのロバを説明している動画は他に無いですね。どれを選んでもいいはずなのに、どれも選ぶ事ができない。無限の可能性の前で、無限に途方に暮れ続ける。この状態の事を、哲学者のキルケゴールは「可能性の絶望」と呼びました。
この肩をすくめて立ち往生している状態は、絶望している状態なのです。可能性が全くのゼロだったら絶望であるが、可能性がありすぎてもそれはそれで絶望を生み出す。可能性は可能性であって現実ではない。可能性を現実のものとするには、一定の時間と力を必要とするのです。その一定の時間を経る事無く次から次へと可能性が現れては消えていっていたら、どこまで行っても現実を生きる事はできない。最終的に自己は現実から乖離して、可能性の海の中を漂うだけのクラゲの如き存在にまでなり果てる。
あなたが歌詞を作ろうとして動画を開いた場合、目の前にはほぼ無限に近い選択肢が広がっています。例えば、文字をどこに置くか。oztoさん曰く「もはや画面上に文字を高さ固定でおけない箇所は無い」です。
画像が示すように、固定位置だけでこんなに選択肢がある。積みやnaka流しを加えればもっとだ。更にここに何色を使うのかという色の選択肢も組み合わせれば、倍率ドン! 更に倍ッ! 「どんな形の歌詞を」「どこに」「何色で」設置しようか考えるだけで、比喩ではなく無限の選択肢が目の前に拡がっている。
2択で悩んでたピュリダンのロバどころの話ではない。こんな状況でも、無限の猿の如く総当たりでコメントを打ち続ければいつの日か歌詞は出来るか? んなまさか。
個人的な話をするのであれば、俺が歌詞を作れない時はこうなっています。「よし作ろう!」と決意して専用コマテをアップするまではスラスラできる。しかしそこから先は何も出来ず、コマテの数だけが増え続ける日々。色々試した結果、難しくて作れなかったのではない。一切指が動かないまま、1コメントも試す事なくコマテの前でフリーズしてしまうのだ。キルケゴールの言う「可能性の絶望」に押しつぶされている訳です。
可能性の絶望に陥ったら、どうすればいいのか。キルケゴールってのは、その生涯を絶望の中で過ごし、絶望のまま道端で死に、ありとあらゆる絶望の傾向と対策を考え続けた絶望の専門家だ。そんなキルケゴールは、TV版エヴァのタイトルにもなったその著書「死に至る病」にて、読者に向かってこう語りかける。
「絶望のベテランである私が来たからには、もう安心だ!!!」
「うわぁ・・・すっげぇ不安・・・・」
可能性の絶望は、必然性の欠如から生じてきます。克服するのに必要な力は、必然性の前に膝を屈し、頭を垂れて服従する力です。無責任な大人たちは子供に向かって「あなたには無限の可能性があるんですよ」と言うが、それに対して「んなもんねーよ!」と言い返す力です。
「自分にはここまでしか出来ない、これしか出来ない」と限界を見極めない限り、あんな事いいな、できたらいいな、と、いつまでも可能性の世界に生き続ける事になる。いつまで経っても現実の世界を生きる事ができない。連休でこんだけ時間があれば、あれもこれも色々と出来るぞグヘヘヘと夢想し続けたまま何もせずゴールデンウィーク最終日を迎えた俺の様に。
この現状を打破し、必然性を得るのに必要なのが、「これしかやってはいけない」みたいな強い拘束を生み出すしっかりと定められたルールです。ここで最初の話題に戻ってきた訳ですね。強い拘束があれば、選択肢はごっそりとそぎ落とされる。ジグソーパズルのピースの形の様に、そこに当てはめるべきピースを自ずから導き出す。
次からは、強い拘束の実例をみながら話を進めていきましょう。
強い拘束が製作者を導く
強い拘束の凄い解り易い具体例として、詩犬さんのブロマガがある。今は亡きニコニコのブロマガであるが、俺はそのごく一部を、未来へと繋いで共有する為にweb魚拓で保存してある。
そして未来に辿り着いた。やれやれ、間に合ったぜ。今回紹介したい詩犬さんの記事がこちらです。
リンクをクリックすれば、懐かしいブログデザインと共に、詩犬さんがどのようなルールに従って歌詞を制作しているのかを読めますよ。そしてとても面白いのが、全くバラバラに作ったはずの4人が、全く同じ構図で投下している画像です。
こんな偶然があり得るだろうか。いや、あり得るはずがない(反語)。4人が100面サイコロを振って4人全員同じ目が出るよりもあり得ない。4人が無限の猿の様に完全ランダムで適当に文字位置を決めていたら、こんな事にはならない。
この位置へと導く必然性がある。この構図へと導かれし者達。わお、RPGのサブタイトルみたいでカッコイイ。メンバーも王道RPGよろしく4人だし。
4人共このシーンから「文字はここにしか置いてはいけない」というメッセージを受け取った訳だ。この強い拘束が、製作者を導く。ここにも置ける、あそこにも置ける、みたいに溢れる可能性の中で絶望する事なく、サラッと決定できた事であろう。
勿論、4人が完全に一致している訳ではない。微妙にサイズが違うし、形も違うし、色も違う。それぞれ得意な技術、好みの型がある訳だから、必然的に人によって偏りが生じる。人には個性があるのだから、コピペしないかぎり完全一致はありえない。
この個性の違いは何によって生み出されるのかというと、その人が従うルールの違いによって生み出される。違うルールに従えば違う作品が出力される。この歌詞合作の参加者の一人であるさくやんさんも、ブロマガ記事を書いているのでそちらも紹介しておきましょう。
さくやんさんの記事
さくやんさんにしても詩犬さんにしても、共通して言えることは、何故ここをこうしたのかという理由をちゃんと説明できる点ですね。自分はどの様なルールに従って作って居るのかを理解している。ここら辺が、HDAさんが詩犬さんの作品を見て「いい歌詞作品は皆そうですが、しっかりとルールを決めて創作しています。」と評した理由です。
もしも思いつくままフィーリングに任せて場当たり的な製作をしていたのであれば、説明もクソもない。サイコロの出た目に理由なんてありやしないのです。
んで、さくやんさんが歌詞をこの形にした理由がこちら。
他の3人は特に意識しなかったけれども、さくやんさんは「変わる」こそが重要なキーワードと捉えた訳です。そして「重要な物は強調して表現する」「優しさを示す時は暖色を使う」というルールに従った結果、上の様な形になった。
従うルールが違えば、出力される作品は当然違う物になっていく。
全く同じ映像に、全く違う4人が投下してくれたお陰で、実に面白い物が見れました。それぞれ別のルールに従っているので全体的に構図は人それぞれなのですが、映像から強い拘束を要求している所では、皆同じ構図に収束されていく。
この合作動画は、参加者本人であるさくやんさんと、oztoさんがそれぞれキャプチャしているので、今でも見る事が出来ますよ。
今見ても色あせない素晴らしい作品であり、学びになる動画ですわ。
こんな正統派な歌詞の後に紹介するのは何だが、別にそんなに素晴らしくないが学びにはなるイロモノ歌詞を紹介しておきます。俺が作った歌詞です。
「このスタイルしか使わない」「色はこの色しか使わない」というルールを設定した結果、凄いスラスラと楽勝で作る事が出来ました。このルールの故に「歌詞はここ以外に置くな」という動画からのメッセージを受け取ったので、それに従うだけでいい。
「強い拘束とは何か?」というのが、解り易く見える事と思います。
最終的には自分で設定したルールがあまりにもキツ過ぎて、途中からこっそりルールを改変した俺の苦悩まで見えますから。こっそりルールを変えた事に、配生にて配管さんからツッコミを受けた。「もうなんでもありかいっ!!」。製作者の苦悩が見えたら、もう苦笑いするっきゃないわな。配管さんのいいリアクションが見れて楽しかった。
緩い拘束を強くしてみる
PVやアニメOPEDなどの、映像付き動画にバリバリ歌詞を投下していながら、黒画面動画になると途端に何も作れなくなる歌詞職人ってのはそこそこ居ます。既に歌詞を作れているのだから、技術や知識が足りない訳ではない。足りないのは、動画が提示してくる拘束の力です。
映像付きの動画は、それ自体が強い拘束を有している。
「ここにしかコメントを置いてはいけない or ここにコメントを置いてはいけない」
「このイメージカラーを使わなくてはいけない or このカラーを使ってはいけない」
「視聴者の感想コメを押し流さない様に、最小限のコメ数に抑えなくてはいけない」
「視聴期限が切れる1週間以内に、手早く作らなくてはいけない」
みたいに。出来る事が相当に限られる。無限の選択肢ではなく、少数の選択肢からいくつかを選ぶように導かれる。
映像付き動画が強い拘束を有しているのに対して、黒画面は緩い拘束しか有していない。どこにどんなコメントをどんなサイズで投下しようが自由。故に途方にくれて何もできなくなる。
通常コメのCAはバリバリ作りまくるけど、投コメ動画には手を出さないってコメ職人も同様の事を言う訳ですよ。「何でもやっていいとなると、何やっていいのか解らなくなる」と。しかるをいわんや今は亡きスクリプトアートなんかは、投コメと比較したら本当に「何でも」出来た。何でもできるけど何もできなくなる。
動画が強い拘束を用意してくれない時はどうしたらいいのか。自分で用意すればいい。自分自身にやるべき事、やってはいけない事をしっかりと定めたルールを用意する。そしてそのルールに大人しく従う。どのくらいキツイルールを用意すべきなのかは、自分がどれくらいの拘束が無いと制作できないかによる。
黒画面の歌詞なら、俺の得意分野だ。実例を示しながら、俺が自分に課しているルールを紹介していきます。
「黒画面なら任せろーーーバリバリ」「ヤメテッ!」
全部紹介するとクソ長くなってゴールデンウィーク中に書ききれないので、代表的で解り易いのを3つほど。説明に必要なのが、このルールに従って作った下の歌詞です。
これは、適当にフィーリングに任せて場当たり的に作った訳ではありません。ガチガチのルールに縛られ、ルールを遵守しながら(あまりにもキツ過ぎる箇所はこっそりルールを破りながら)作りました。ちょっと見て来て欲しいのですよ。んで、ルールを説明した後にもう一回見直すと「あ、本当だ」となる体験ができると思います。見える世界がちょっと変わるはずです。
では、順番に説明していきましょう。
ex.ルール1、迷った時は左上から始める
どこに文字を置いてもいいとなると、どこに置いたらいいのか本当に迷う。迷いすぎて迷子になる。1コメ打つ度に迷っていたら、制作期間が1年あっても完成しない。なのでそうならない為にルールを設定しました。迷った時は左上から始めろ、と。それを踏まえて動画を振り返ってみましょう。
まずスタートは迷ったので左上から始めている。
次も迷ったので左上から始めている。
迷ったので左上から始(ry
左上(ry
ひ
h
いや、お前どんだけ迷ってんねんっっ!!
ってツッコミが飛んできそうだ。そりゃぁ、迷いまくりですよ。俺の他の黒画面歌詞も、その殆どが左上から始まっていますから。これは、どうやったら綺麗で読みやすい歌詞を作れるんだろうと試行錯誤していたら辿り着いたルールです。あえてルールを無視して無限の猿の様に「えいや!」と適当に投下していもいいのだが、それだといい感じに仕上げるに凄い苦労する。
日本語の読み方は基本的に2つ。
1、左から右に向かって読む
2、上から下に向かって読む
なので、左上からスタートすると、そこから右にも下にも縦横無尽に歌詞を展開できるのですよ。ところがもしここで右下からスタートすると、下から上に向かって文字を読む事になったり、右から左に向かって文字を読むスタイルになる。サウジアラビア人なら右から左に文字を展開してもスラスラ読めるのだろうが、日本人がそんな事されたら、歌詞が読みづらくってしょうがない。
なので、左上からスタートして、右下で終わる様に心掛けると、それだけで歌詞が大分読みやすいものになります。右下ってのは、「もうここで終わり。これ以上展開しません。次のシーンに移ります」って使い方をすると効果的です。
右下
ex.ルール2、エリアごとにスタイルを固定する
使える技術が増えて、自由に出来る事が拡がれば拡がる程、どの技術を使うかの選択は困難な物になっていく。歌詞だけでなく、装飾も作れて、絵も作れて、なんならデカ文字CAで歌詞を作れる人が黒画面歌詞を作ろうとしたら、相当迷う事だろう。それらを全部サラッとこなして見せる██さんみたいな人はもう別格すぎる。これは別に伏字にしている訳ではなくそういう名前なんですよ。
██さんの様に既にスタイルが確立されていて、緩い拘束でも自由自在に技術を使いこなせる・・・・・訳ではないという凡人の自覚があるのであれば、強い拘束をもたらすルールが必要になってきます。俺の場合、動画のエリアを、歌の1番・2番・3番で分類して、エリアごとに使っていい技術と駄目な技術を設定しました。このアンインストールで決めたのは以下の通り。
1番のエリアは、高さ固定の一文字歌詞をメインに作る。
2番のエリアは、naka流しのみで構成する。
3番のエリアは、2588を使ったホーネット君スタイルで作る。
だから1番で2588ブロックを使ってはいけないし、3番でnaka流しを使ってはいけない。これを決めていたので、スラスラと作れました。あ、スラスラと言っても勿論時間はかかってますよ。
「どうやったらもっとカッコイイ歌詞になるだろう」とか「どうやったらもっと綺麗になるだろう」という事に関しては、作っては消し作っては消しの繰り返しですから。ただ、「どのように」作ればいいのかは悩みまくりですが、「何を」作ればいいのかはあまり迷ってません。何を作ればいいのかはもうルールで決まっていますから。
一歩も踏み込めず立ち往生する事態にはなっていないのですよ。取り合えず最初の一歩は踏み込めている。三歩歩いて二歩下がるの繰り返しであっても、常に足を踏み込み続けている。お前はとにかくこの道を進め、とルールが導いてくれますから。
ex.ルール3、使っていい色は3色まで
現在ニコニコで使用可能な色は、16の6乗である「16,777,216色」の色が使える。パソコンやスマホのディスプレイでそこまで表現できるのか、人間の目でそこまで違いを認識できのかというツッコミは置いといて、そんだけ沢山の色を選べるという訳だ。そうなってくると、出てくる疑問がある。
Q,どうやったらこれら沢山の色を使いこなせるようになりますか?
A、諦めろっっ!!!
センスのいい色使いってのは、センスのいい人間がする物です。今までの人生振り返って、コーディネートでも家具の組み合わせでも絵画の授業でも、自分で選んだ色使いを誉められた経験が無いのであれば、もう諦めましょう。自身の限界を正しく認識する事が、可能性の絶望を克服する方法です。
一度に使う色が増えれば増えるほど、使いこなす難易度は飛躍的に跳ね上がる。
これを考えるにあたって、例えばあなたが現場監督として複数の部下を使いこなす立場だったとしましょう。部下が2人か3人だったら、全ての部下と部下の人間関係を把握する事は簡単だ。適切な現場に適切な部下を配置して、いい仕事をさせる事も簡単だろう。
しかしこれが20人30人の部下だったとしたら、「全て」を把握するのは最早人間業ではない。誰と誰の仲がいいのか、あるいは険悪なのか。誰と誰を組み合わせると喧嘩やいじめが発生するのか。誰と誰を組み合わせると、お喋りばっかで仕事をさぼる様になるのか。誰がどんな技術や資格を持っているのか。こんなの「全て」把握できる訳がない。こうなるともう、大雑把で十把一絡げな扱いしかできなくってきますわ。
沢山の色を使いこなすってのは、そういう事です。どの色とどの色を組み合わせると、綺麗に映えるのか、もしくは汚くなるのか。どの色の相性が抜群なのか、最悪なのか。この色は何が得意なのか。考える事が爆発的に増えていく。あなたが既に、何十人何百人の部下を従えて使いこなしている人間でないのであれば、同時に沢山の色に手を出さない方が無難です。
俺は使いこなせない側の人間なので、使える色はごっそりとそぎ落としています。基本は白。白画面の時は黒。この2色さえあれば、歌詞は作れる。今回のアンインストールの場合は、「白・赤・黒」の3色まで。濃さの違いはあれど、それは俺の中では同じ色として扱っています。
例えば、
「#ffffff」は強い白で、
「#606060」は弱い白、って感じで。
俺の中ではどちらも白扱いです。
これは格闘ゲームの「強パンチ」「中パンチ」「弱パンチ」みたいなものですね。どれもパンチであることに変わりはない。
「次はパンチを打とうか、キックにしようか。それとも武器か、投げか、あるいは飛び道具か」みたいに悩んだりしない。相手が何をしてこようがパンチを打つ事はもう決まっているスーパーストロングスタイル。なので何色のコメントを使うかで悩む事はないですね。もう作る前から色は決まっているのですから。
「この動画ではこの色を使う or この色は絶対に使わない」と、しっかりルールを決めて拘束を強くするほど、全体的な作業は楽で簡単な物になっていく。
「何て綺麗な色使いなの、キャーステキー!」ってチヤホヤされるのを諦めている俺みたいな人は、使う色を減らせば減らす程、ゴチャゴチャしたセンスの無い色使いが視聴者にバレなくなるので、色彩センスとは無縁でも何かいい感じに仕上がりますよ。
映像付きの動画の場合、動画やキャラクターのイメージカラーだったり、背景に埋もれない色だったりで、動画自体が使う色に関して強い拘束を用意している。しかし黒画面の場合は、何にも用意してくれないので、しっかり自分で用意しましょう。
まとめ
そろそろまとめに入らないと、GWが終わってしまうので無理矢理まとめますよ。(もうGW終わってた!)
「何故いい歌詞は皆、しっかりとルールを決めて創作されるのか?」であるが、まずルール無用の完全なる野蛮状態だったら、意味ある事を何も出来ずに立ちつくしたまま終わります。作るどころの話ではない。
無限の可能性の中から、一つを選び取って現実の物とするには強い拘束が必要になってくる。その強い拘束を得るには、自分自身でしっかりとルールを定める必要がある、と。もしも哲学者のオルテガがこのまとめを見たら「自らに課す要求水準が高ければ高い程、その作品は良作たりえる」と付け加えるかもしれん。
オルテガの著書『大衆の反逆』に曰く、「文化の程度が高いか低いかは、規範の精度が高いか低いかによって測られる」
肩パッド付けたモヒカン達が「ルールなんてクソ喰らえだぜヒャッハーーーーッッ!」となっている世界に文化は無い。それは『野蛮』であって、野蛮の中にはいかなる文化も存在し得ない。それに対して文化の高い世界では、ルールが人間活動のすみずみにまで浸透している。
この「文化」を「個性」に言い換えたのが、HDAさんの言いたい事ではないかと解釈している訳ですよ俺は。ルールがその人の作品の隅々にまで行きわたり、全体を通して一本の軸を為す。その軸がその人の個性であり、その人にしか成し得ない「いい歌詞」を創出していく、と。
そんなこんなで、今回の記事はここまでとします。
それでは、次回の記事までごきげんよう。