前回までは仕様の面とコミュニティの面からCAについて掘り下げてきましたが、今回はもっとCAというものの根幹に触れるようなことを書けたらと思います。
内容はズバリ
「コメントのおもしろさ」と「CAのおもしろさ」という相反する2つの価値観
についてです。
CAとAAというのは名前は似ていますがその実全く異なるものです。そして生放送のCAと動画のCAも全くの別物であり、さらにいえば視聴者コメントの CAと投コメCA、SAも同様に異なるものです。
では視聴者コメントのCAと他のものとはどのような点で違うのかと考えると、視聴者コメントのCAは上記のような2つの価値観の存在が決定的に他のものと異なります。
今後「ツール」「コピペ」「二重リサイズ」「職人という呼称」というようなCAに特徴的な論争があったテーマでブロマガを書く予定ですが、結局のところ、これらはこの二つの価値観が大元であるといっても過言ではありません。
というわけで今回のブロマガは、まず「CAのおもしろさ」と「コメントのおもしろさ」とはどういうものであるかを説明し、次にその価値観はコミュニティ全体でどのように扱われてきたのかについて時代を追って見ていきます。そして最後にそれらを踏まえたうえで現在はどういう状況なのか分析します。
「コメントのおもしろさ」「CAのおもしろさ」 CAを知らない多くの人は、いわゆる「職人」と呼ばれるような人たちは手間をかけて凝ったコメントをするくらいなのだから、コメントが好きで通常のコメントもしばしばしてるのだろうと思うかもしれまん。
しかし、現実は多くの場合そうではありません。
CAをやってる人は意外なほどCA以外のコメントはほとんどしない、さらには全くしないという人が多くいます。これがなにを表しているかというと、「CAのおもしろさ」と「コメントのおもしろさ」というのは必ずしもイコールではないということです。
後で詳しく説明しますが、CAというのはコメントから生まれたものですから、初期の頃はコメントそのもののおもしろさに立脚していたのは間違いありませんが、CA文化が発展していくにつれてCAのおもしろさが分離するような形で生まれていくことになります。
「CAのおもしろさ」が広く認識され、それを好む人が増えていくことでCA文化が形成されていったわけですが、 しかしそこには根源的で大きな問題がありました。
「CAのおもしろさ」というのは「コメントのおもしろさ」と完全に分離することができないどころか、むしろ相反する価値観だったのです。
ひとつの顕著な例は今は亡き投コメアンインストールです。この作品は「CAのおもしろさ」に全てを注ぎ込んでいるという点でとても特徴的です。
この動画では投コメ以外のコメントはほとんど見えないように設定されています。それは、一般コメントの存在はCAに被る等の干渉をすることから、「CAのおもしろさ」の観点からいえば邪魔でしかないからです。
またもうひとつの例として、字幕歌詞を投下する場合を考えましょう。
連結によって連続的に絶え間なく表示したり、積みを利用してズレなく擬似連結することは「CAのおもしろさ」の観点からいえばとてもおもしろいといえるでしょう。
しかし一方で「コメントのおもしろさ」としては16行等で作成した場合(つまりわずかなズレを許容しコメント数を減らした場合)とほとんど変わらないか、むしろコメント数を増やしている分「コメントのおもしろさ」を低下させています。
このように「CAのおもしろさ」と「コメントのおもしろさ」というのは基本的には相反するものであるといえます。このためCA作者はCAというものが生まれた時から現在に至るまで延々とこのジレンマに悩まされてきました。
昔からCAは「空気を読む」ことが一番重要だと言われてきましたが、この「空気を読む」というのは「CAのおもしろさ」と「コメントのおもしろさ」の妥協点をどこに置くのかということです。広くユーザーから評価されるCAというのはほとんど例外なくこの妥協点の置き方が優れています。
しかし、「空気を読む」というのは並大抵のことではありません。現実でもそうですが、うまく「空気を読む」には相手(どんなユーザーが対象か)、状況(どのような動画か)、可能な手段(どこまでできるか)を理解しておかなければなりませんが、それでも実際に行動に移してみないとどうなるかはわかりません。
結局のところ場合によりけりとしか言えず、絶対の妥協点というのは存在しませんし、ましてやどちらが勝るかということもあり得ません。これは常に留意してほしい点でもあります。
上で出した2つの例でも、1つ目の投コメアンインストールはミリオン達成の快挙を成し遂げていますし、2つ目の場合も多くの場合他のユーザーに受け入れられてきました。
視聴者コメントでCAをやる人は多少の比重のかけ方の違いはあれど、須らくどちらのおもしろさも重視しています。「CAのおもしろさ」に魅力を感じないのであればそもそもCAをしませんし、「コメントのおもしろさ」に魅力を感じないのであれば早々に”視聴者コメント”から撤退するはずだからです。
このように、CAには二つの相反する価値観が存在しています。
では歴史的にCA作者はこのジレンマにどのように対応してきたのでしょうか?
2つの価値観を巡るお話(黎明期) コメントから生まれたCAはその出自の関係上、特に初期の頃は「コメントのおもしろさ」が非常に尊ばれていました。例えば、今では少し考えられないかもしれませんが、組曲「ニコニコ動画」でよく貼られるような絵系CAのような大型CAは「コメントのおもしろさ」を無視した邪道なものとして全くの別物扱いされていたりしました。勘違いされないように少し補足をすれば、組曲は特別に大型CAが許される環境であったためあのようなCAが多く貼られていたのであり、別に「コメントのおもしろさ」を蔑ろにしていたわけではありません。むしろ自由な環境な分「コメントのおもしろさ」を謳歌していたと思います。
話が少し脱線しましたが、とにかく黎明期は「コメントのおもしろさ」というものに非常に大きなバイアスがかかっていたわけです。しかし一方でCAの技術や表現が向上することで、コメントをするおもしろさとは別に「CAのおもしろさ」というものも生まれてきました。
そして重要なこととして前回のコミュニティの話でも触れたように、ちょうどこの時期から徐々に小規模ながらいくつかのコミュニティが形成され始めました。基本的に「CAのおもしろさ」というのはある程度CAに関する知識がないと共有することはできません。
つまり、「CAのおもしろさ」というのはコミュニティの発展と密接に関係しています。
そして「CAのおもしろさ」の誕生を契機として、少しずつ価値観を巡る論争が勃発することになります。特に黎明期の頃は『コメント機能でどこまで可能であるか?』という可能性の追求にひた走っていた側面がありましたが、これは「コメントのおもしろさ」の真逆を行く行為ですから、ここで大きな諍いが生じました。
今のニコニコであれば各々(もしくは各コミュニティ)が好き勝手やっても特に問題はなかったと思います。しかし当時はニコニコ自体が非常に狭いジャンルであったこと、投コメ動画といった「CAのおもしろさ」に特化した作品を発表するような土壌がなかった(必然的にCAは全て視聴者コメントで行う必要があった)こと、そして荒らしに対抗するような手段(NG共有や投稿者のコメント通報など)が整備されていなかったため相対的にCAの影響力が大きかったという事情がありました。もちろん知識や経験といった蓄積もほとんどありませんので、このまま「CAのおもしろさ」に突っ走ってやりたい放題すれば大変なことになるという危機感を抱くのも至極当然な状況だったわけです(何より悪例というのがゴロゴロありました)。
このためある程度の価値観の統一というか最低限のルールの設定が試みられることになりました。いわゆる暗黙の了解というやつで、これが「ツール」「コピペ」などなどといった話に繋がります。
そしてこの暗黙の了解はコミュニティの進展と共に浸透していき、最終的にコミュニティの統合、つまり遺産コミュの登場で絶対的な不文律となりました。
それと同時にこの不文律は以後のCAのあり方というものを決定付けるものとなりました。つまり、初期の環境的な要請から作られたはずのルールが「CAとはこういうものだ!」というCAそのものの性質を示すものとなったのです。
この置き換わりによって、本来環境に合わせて能動的に変化するべきはずのルールが絶対的な価値観として固定化されました。これはCA文化における特徴のひとつです。
この不文律は時代の流れを汲んで「コメントのおもしろさ」が優勢なものとなっていますが、時間が経つにつれコミュニティ全体の価値観としては「CAのおもしろさ」が優勢となっていきます。そのため硬直化した不文律はしだいに大きな不和を生み出していくこととなります。
ただ前述したように時代を鑑みればある程度の基準の策定は仕方のないことであり、実際ある時期までは一定の指標として十分に機能を果たしていました。つまりルールの策定自体に問題があるのではなく、問題があるとすればそれが状況が変わっても全く変更がなされなかったことでしょう。
では状況はどのように変わっていったのか詳しくみていきましょう
- 2つの価値観を巡るお話(全盛期)
過去のブロマガで、この時期はコミュニティの面からも環境の面からも恵まれていたという風に書きましたが、加えて、「コメントのおもしろさ」と「CAのおもしろさ」のどちらもがうまく共存できたという点でも非常に特徴的でした。
基本的に「コメントのおもしろさ」というのは右肩下がりに減少しています。というのはコメント率が年々減少していくことからもわかるように、そもそもニコニコ自体でコメント機能のウェイトがだんたんと小さくなってきており、動画自体のクオリティの向上とあわせてコメント機能自体の魅力が相対的に小さくなっているからです。
その一方で「CAのおもしろさ」というのは右肩上がりに上昇していました。これにはコミュニティの発展が大きく寄与しています。またそれを示す象徴的な出来事は、投コメ動画やさらにはSAといったような「CAのおもしろさ」に特化した動画の登場と興隆です。これは「CAのおもしろさ」だけで十分魅力的なものになり得るという事実を表す重要な出来事で、このときから徐々に価値観の変化が生まれはじめました。
その変化は新規参入者に如実に表れています。
初期の頃は前述しましたが、コメントの直線状で入ってくる人が多かったので「コメント
のおもしろさ」に重きを置く人が多くいました。一方でCAがある程度発展して広く人の目に留まるようになると、コメントからではなくCAを見てCAを始めるというような人が多くなりました。その結果、初期の頃のような「コメントのおもしろさ」優勢だった価値観がしだいに「CAのおもしろさ」に取って代わっていきました。
つまり多数派が入れ替わりつつあったのです。
CAの魅力によって多くの人を惹きつけたことでCA文化はこの時期に大きな発展を遂げます。CAが「コメントのおもしろさ」なくして成り立たないのは事実ですが、同時に「CAのおもしろさ」も必要だったのもまた事実です。この二つの両輪によってCA文化が形成されていくわけですが、この時期はそれがうまく噛み合わさっていた時期ともいえ、そういった意味でもCAの全盛期といっていいでしょう。
このようにこの時期は「コメントのおもしろさ」と「CAのおもしろさ」がほどよいバランスで共存していましたが、徐々に多数派は「CAのおもしろさ」に傾きつつありました。しかしこのような状況であっても不文律はほとんど見直されることなく「コメントのおもしろさ」に重きを置かれたものであり続けました。
また投コメ動画のような「CAのおもしろさ」に特化した動画の登場によって、「コメントのおもしろさ」の必要性が強調されるようになりました。つまりそれまで視聴者コメントでやるしかなかったものが、選択肢が増えたことであえて視聴者コメントでやる意味、動機付けというものが必要になってきたのです。
そして、外部の環境も変わりつつありました。製作環境も変わり、視聴環境の多様化の流れも来ていましたし、何よりニコニコ自体の空気も大きく変わっていました。そういった中で、環境や多数派の価値観と馴染めなくなった不文律は大きな不和を生み出します。
2つの価値観を巡るお話(後期) この時期になるとCA文化はほとんど成熟しきっており、「CAのおもしろさ」に重きを置く人がほとんどになっていました。
また重要なこととして、製作面ではエディタ編集が利用できるようになったことで大規模かつ複雑なCAをつくることが現実的に可能になり、さらにコメントアートwikiの登場でCA技術に関する知識の整理が行われました。もちろんコミュニティ自体も変わらず存在していたので、「CAのおもしろさ」を共有することには困りませんでした。
このように「知識」「ツール」「評価するユーザー」の全てが整備され、「CAのおもしろさ」を満喫するのに十分な環境が形成されました。しかし一方で「コメントのおもしろさ」は減少の一途をたどっていました。
内因的にも外因的にも「CAのおもしろさ」に偏るのはある種必然だったいえるかもしれません。
「CAのおもしろさ」が優勢であったことの顕著な例がマイメモリーでしょう。この時期になるとマイメモリーではCA以外のコメントを全て削除するのが通例となっていました。
ただ「CAのおもしろさ」には仕様の関係上必ず限界というのが存在します。またエディタ編集の登場は可能性を広げる一方でCAの複雑化と大規模化に繋がり、製作時間を増大させ、それがCA作者の大きな負担となりました。
そして「コメントのおもしろさ」に重きを置かれた不文律は依然と存在し続けました。
この時期のやりたいのにやれないというジレンマと閉塞感は相当なものだったと思います。
そんな風な中でも様々に作品が発表されていたわけですが、CA文化はあるときを境に急速に終息に向かうこととなります。
まずはNG共有の実装です。これにより「コメントのおもしろさ」はほとんど壊滅的な打撃を受けました。年々薄くなってきていた視聴者コメントでCAをやる動機付けが、これによりさらに困難な状況になりました。
そして視聴環境の急速な多様化で、事実上以前のように「空気を読む」ことが不可能になりました。前述のように、視聴者コメントのCAは「コメントのおもしろさ」と「CAのおもしろさ」の両方によって成り立っていますが、その両立ができなくなったのです。つまり視聴者コメントでCAをやる意味というのが非常に希薄になり、その魅力が大きく削がれました。
これに伴いコミュニティも衰退していくことになりますが、重要なこととして、「CAのおもしろさ」とコミュニティの発展は密接に関係しています。そしてこの時期は「CAのおもしろさ」が非常に優勢でした。この結果、いったん人が離れていく流れができると加速度的にコミュニティが縮小していきました。
コミュニティの体質として、急速な衰退がいつおきてもおかしくない状況だったわけです。
過去のブロマガでいくつか衰退の要因をあげましたが、あれらは確かに直接の引き金にはなりましたが、タイミング的にたまたまそれだったというだけです。
ここまでが大まかな流れで、CA文化は一旦ここで大きな足踏みを余儀なくされました。
ではその後から現在に至るまで状況はどのようになっているのでしょうか。
- 2つの価値観を巡るお話(現在)
現在はコメント機能自体の役割が大きく減衰したため、「コメントのおもしろさ」を楽しめるような動画は特定のジャンルやアニメ本編などのごく一部に限られるようになりました。また大規模なコミュニティは事実上消失してしまったため、「CAのおもしろさ」を楽しむのも難しくなっています。
加えて視聴環境の多様化の進展がすさまじく、現在ではPCできちんと表示させることすら難しいというのは何度もブロマガで書いてるとおりですが、その影響でさらに「コメントのおもしろさ」と「CAのおもしろさ」の両立が困難になってきました。
このように「CAのおもしろさ」「コメントのおもしろさ」という観点からみても八方塞がりでいかんともしがたいというのが率直な状況です。
その中でもなんとか両立を保とうとして環境互換技術の開発も引き続き検討されています。しかし基本的に環境互換というのは「CAのおもしろさ」をひたすら削る作業でありますし、何より手間が非常にかかるのが大きなネックです。このため明確な打開の手段にはなり得ていません。
ただ現在は視聴環境の多様化と引き換えにコメント通報やNG共有などのCAに対する対抗手段が広く整備されました。以前はこれがほとんどなかったためCA作者側である程度のルール付けが行われたということは見てきたとおりですが、きちんとした評定機能が整備された現在ではむしろやりたいようにやって、その後は全てユーザーにゆだねるという考えも非常に有力だと思います。
またCAの価値観として固定化された不文律ですが、これはほとんど時代に即しているとは言いがたい状況になっており、今後何かしらの価値観の転換というのも十分にありうると個人的には考えています。
まとめると
現在は「CAのおもしろさ」と「コメントのおもしろさ」どちらの楽しみを得にくい環境であり、さらに視聴環境の多様化がそれに拍車をかけています。さらに環境の多様化はユーザーで対処できる範囲を超えています。CAへの評定機能が整備されたことも考慮して、不文律に代表されるような今までのCAの基本的な価値観の大幅な転換があってもおかしくない、というよりもむしろ積極的に転換を図ることが必要な時代になっているのかもしれません。
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というわけで今回の内容は以上です。
今回のブロマガでは「CAのおもしろさ」と「コメントのおもしろさ」という二つの相反する価値観が存在するとして、そこから演繹的にいろいろと過去そして現在の事を分析してきましたが、別にこれが正解というわけではなくただの切り口のひとつにすぎないということは重ねて強調しておきます。そういったわけで今回のブロマガは、事象の記述を主目的とした過去のブロマガ(環境変化とコミュニティの話)とは性質が大きく異なるので注意してください。
いろいろと考えた結果これが個人的に一番説明がしやすいと感じたので今回はこのようになりましたが、いやいや「コメントアートってのはこういうもんだ!」という切り口はそれこそ人によって無数にあると思いますので、是非他の方の意見も聞いてみたいかなと思っています。
ではでは長々と読んでいただきありがとうございました。ではでは~